●;俺はやんないよなぁ

●:読み集めたものに『現代の発見』(春秋社)という函入りのコンパクトなシリーズ本がある。編集者は、吉本隆明が忘れがたい編集者として悼んだ岩淵五郎氏。古本屋でポツポツと買い集めた。ワイダ監督の「灰とダイヤモンド」の映画評で橋川文三を知った。村上一郎の「日本帝国軍隊論序説」という大仰なタイトルで村上一郎の名前も知った。科学史学者としての評価は知らないが、中岡哲郎の名前を「倫理の優越と論理の不毛」という論文で覚えた。前衛党の内部の敵としてトロツキスト呼ばわりして異端を排除する時に「カネと女」に関する瑕疵を言い立てる…などと言っていた。
権力を持った<中心>の周辺に自然と屯する男や女。<周縁>からは宦官か妾のように見られる。権力者の「視線や仕草の政治」がそうさせるのか、組織というものの生成の生理なのか。本間某の官舎住まいがドウタラコウタラには興味がない。経済学者としての実力も知らない。「規制緩和、是か否か」みたいなテレビのディベート番組で見かけたが、格別好ましい印象はなかった。ま、「権力の中心」に向かって行くのが好きな人なんだろう…程度の認識。
●;過日、「ワーキングプアⅡ」の再放送を途中まで見た。見たかったのはこの番組の冒頭に出てきた31歳の若い母親の映像。番組のヒロインといってもいい。端正な顔に小さなめがねが似合う。忘れがたい人だなぁと思ったので、再放送を見る気になった。トラックバックされた「ブログ」に「この人は、別れた夫から慰謝料や養育費を貰っているのでしょうか。親はお金の援助していないでしょうか」と制作側(NHK)に問い合わせ、丁寧な返事を貰ったと報告しているのがあった。「エッ!、なんで、そんなこと聞くの?」(余計なお世話じゃん)。
●;出演者(素人であれプロのタレントであれ)に興味を抱き、ファンとなり懸想することもある。好き/嫌いかの感情も沸く。しかし、それで終わる。ドキュメンタリー出演者の私事まで探る気は起きない。想像する自由は確保するけれどももそれだけである。「私事を知ってどうするの?」。「番組構成のロジック」、傾向性があるとかとか言うのは「批評の自由」でいい。だが、「私事を確かめたい〜」というのが判らない。「いろいろあらぁな」と、想像するのは自由だ。「そこまで知ってどうする?俺はやんないよなぁ」。中岡氏が言う「倫理の優越」と同じ。<秘め事>が見つかれば、ヤンヤと騒ぐのかな。権力者には「精神の貴族」たる英知を求めるけれども、ルサンチマンからの暴きと囃し立て方はどうでもいい。被支配者の側がスキャンダリズムに陥ったらおしまいだ。スターリンもそうだったが、そういった手法は、権力者側に利用されるだけ。

分からないもの(1)

●;テレビ、新聞雑誌、単行本などの露出が多い多才な中沢新一氏の『哲学の東北』(青土社)を鞄に入れて行き帰りに読む。著作が多い中沢氏の本は(正直言って)ついていけない。この本は対談とインタビューなどで、ま、易しい本。氏の本をまともに読んだというのは嘘で、氏ほどの学殖を持ち合わせていないのが最大の理由。(親しく話したことはなく、むろん、向こうが知っている訳ではなく)どこかで会った時に眼で挨拶する程度(といっても挨拶される彼も「誰だっけ?」と、いぶかしむと思うけれど、こっちが好意を持っていると何か<敬意のようなもの>が無意識的に伝わるような気がする(うぬぼれ…だなぁ)。氏が唱えている「芸術人類学」も、よくは分からない。『対称性人類学』(講談社選書メチェ)について、松岡正剛氏が「表題編集賞を贈呈したいくらいに、タイトルはフォトジェニックだ」と記していたけれども、処女作の『チベットモーツアルト』(せりか書房)以来、タイトル・ネーミングはすこぶるうまい。エロティシズムがある。(たぶん)大人という他者のウケ方を知らず知らずのうちに覚えてしまった感受性の強い子どもだったのだろう。その巧まざるコピーライターぶり(=作家性)が氏の真骨頂。その点、人たらしのレトリック王(難解王とも言っていた)谷川雁と似ている。本をひっくり返し、年末〜に格闘してみよう。「分からないこと」を放ったままでいるのは、基本的によくない(精神の怠惰というものだろう)。

●;不快なもの(2)

●;<不快なもの>…「北朝鮮暗黒物語」(ニュースショーなどで見せられるこれでもかこれでもかのパターン認識映像)。「ひでぇ国だな」とだけは伝わってくるけれど、ただ、俗情と結託しているのみ…不快。危険をかいくぐって得られたフリージャーナリストによるむごたらしい映像を安く(たぶん)買い叩き、「乳呑み児〜・幼児〜、少年・少女、売春婦などなどの悲惨なショット」を選んで局の名前で編集し直して、放映するたぐい。「他国民の不幸」を見せつける番組のキャスター&コメンテーターで感心した者はいない。「おい、おい」。隣家の不幸をのぞき込んで「我が家の平穏、しあわせぶり」を何食わぬ顔して優越感に浸りこみたいのかよ、その恥ずかしい品性。誰かのエッセイで読んだが「ビルの屋上から飛び込み自殺を図る人」に向かって「早く、やってしまぇ!」と呟く野次馬。どこか非日常的な惨劇を期待している人々の俗情。北朝鮮の脅威とやらをテコに(大義名分化して)核武装してもいいのではないかなどと窺う高官連中と、番組はパラレルである。報道(局)の名前は被されていても、そこにジャーナリストたる者はいない。今夕もTBS「報道特集」で「日本人妻」の小特集をやっていたが、ソ連社会主義国家官僚が「遅れた国家・北」に押しつけた「計画経済(思想)」のところまで現代史取材をしなくては。可哀想な話どころではない。極東の貧しい国の「労働力確保」まで指導したスターリン主義官僚の施策の結果、金日成パルチザン国家をして朝鮮戦争に参入〜というシナリオを遂行した。金正日を嘲笑したつもりでもなんぼのものではない。問われているのは「現代史取材」である。

●;引用するコトバ(1)

「まけてくれへんか!」(JR西日本福知山線運転手氏の車掌への無線電話)

「存在は裸形をおそれて幻影をまとう」(市川浩『精神としての身体』講談社・学術文庫)

「人間の魂の奥深くまで、善と悪は入れ替わり、ひそかな妥協を交わす」(ボードリヤール『不可能な交換』(紀伊国屋書店

「大事なのは眼と耳の射程だ。風景はいまや多層化した。表層、中層、深層。三層は見通せないにせよ、せめて二層くらいは見抜けないものか」(辺見庸『いま、抗暴のときに』・毎日新聞社

●;快いもの/不快なもの

●;長患いの家族の病(ある程度予測していたが)悪い状態の報せが立て続けに。その事も(少しあり)落ち着かず、いらいらする。一方、気分の解放になるやもしれぬ<新しい仕事らしきもの>の攻め方がよく判らずオーバーに言えば「フレームワーク」「画が描けない」。つまり、いくらやっても簡単な方程式が解けない試験前の中学生のような<不快な気分>に陥っている。やたらと「人の話」を聞きたくなる。こういう時には、媒介、他者によるバネが必要なのだ。「暮のご挨拶に〜」と大したことをしたわけでもないのに、律儀に訪ねてきた元家電販売営業マン氏とタバコと珈琲で長いお喋り。「フムフム、なるほど」と膝を打つような話にホッ。確か彼の奥さんはC型肝炎で透析を続けていると聞いた。続いて久しぶりに顔を合わせた某氏に「ちょっと、時間ある?」と言って時間をもらう。一年前ほど、あるイベント会場で会った時には顔色が黄色かった。ガン患いだと聞いていたので、当たり障りのない立ち話だけだった。私の話が最初はよく分からないようだったが、やがて明快な答えと示唆をいただく(ありがたい)。
駅スタンドの白抜きふんどし夕刊紙の見出しが目に入る。石原都知事一家のスキャンダル。「また、カネかよ」。私物化批判にマッチョ剥き出しで居直る俗悪な権力者、記者会見でもこじつけ屁理屈を居丈高に展開するだけだろう。不快。
●;家に帰ると家人の声音が明るい。どうしたことかと思ったら、病者二人が少しだけ好転したらしい。今日、明日に逝ってしまうことはなさそう。炬燵に入ってテレビと新聞を見ながら遅い夕飯。満腹になったせいか眠くなり、毛布を被る。テレビの雑音で目が覚める。「テキトー男・高田純次をからかうお笑い番組」。下ネタ連発、セクハラまがいの快調子、高田純次。「いゃーねぇ。最低!やめてよ」とOLキャラの中島知子の嬌声が響く。ばかばかしい話芸に笑う。テキトー男はいい。上品社会の愚劣さを批判する精神が宿っている。

●;「ワーキング・プアⅡ」を見る

●;今夏、NHK放映で「時のことば」になった感の「ワーキング・プア」第二弾。
・印象に残ったシーン。二人の男児を抱え昼夜二つの職場を行き来する若い母親。お祭りに居並ぶ屋台を前に二人の子どもに「食べたいもの買っていいんだよ」と言う。(奥さん、子供さんをいつまでも抱きしめてあげて!)と、声掛けたくなる。老夫婦二人の缶拾い生活、潰した缶は一個2円とか。倒れそうになるほどの自転車の積み荷は缶の山。一人娘のところに厄介になる岐阜の零細企業工場主の奥さんの呟き。「甲斐性なしの親だけど〜」」と涙ぐむ含羞に満ちた表情。
・コメントを寄せた人のことば…内藤克人氏の《貧困層がマジョリティになる》。経済財政諮問会議メンバー?の八代氏…言っているのは、かつての竹中大臣、政府税調の本間教授らと同じ論法。「経済成長なくして〜」と、どこかで聞いたセリフ。ボスト高度成長社会、グローバル社会(=金利優先社会)で生み出されるそのキツさが「弱者」(母子家庭、雇用機会少ない地方の零細企業関係者、障害者、高齢者ら)を排除していく現実。同時刻、フリーター(ニート)叩きの「下流くん」といった調子の「爆笑問題出演番組」(フジ)のチャンネル変える。「嗤えねぇよ」。
●;土曜日のある場所での某氏の発言。フリードマンVSケインズを持ち出した。「小さい政府VS大きい政府」論である。《モダニズムアメリカニズム→グローバリズム→バルガリズム(俗悪なもの)→ニヒリズム→ファンダリズム→テロリズム》というプロセスの引き金を最初に引いたのは、二十世紀を通してアメリカだ…とは西部邁説(『テロルと国家』(飛鳥新社・02年)。ホリエモン氏のブログを読んだことがあるが、俗悪そのもの。金転がしの天才?かもしれないが、なんだコイツ、まるで魅力がねぇ男だな、と。金儲けの果てがこんなバルガリズムを産み出す程度なら、大した価値はないな、と思ったものだ。

下層の人、上層の人(3)

●;多作な人たちだが、ちょっとした感情の切れ端が棘にもなり、喉に引っかかって読まないでいた人の作品を読む気になる。藤原新也『何も願わない手を合わせる』(東京書籍・03年)と、辺見庸『眼の探索』(朝日新聞社・98年)を立て続けに読む。藤原氏の『東京漂流』(情報センター出版局)が評判になった頃、パラパラ読んで「ま、この人はいいや」と遠ざけた。「メメント・モリ」など死者の側に立ってのファインダーを覗いて写し取る<捕捉する眼>は、印度放浪など死者が転がっている地域を旅して来たこの人ならではの独自性があることは認めても、どこか社会評論風に納まってしまう文章がいただけない思ったりしたものだ。80年代初頭、一流大学卒のエリート・サラリーマンの父親を浪人中の少年が金属バットで殺した事件が大きく報道された。「エリート」には縁のない世界に棲んでいたから、今はさして驚かない親殺し(その逆の子殺し)が続発しているからではなく、当時は何か格別に異様な事件として捉えられた。モーレツ・サラリーマン家庭の悲劇といった出来合いのロジックが定着したように思う。氏はその家のたたずまいを被写体として捉えていたが(私の受取りかたは)家族の中には惨劇が潜んでいるのであって、特別に異常視する必要はないぜという反発があった。
●;辺見庸氏の『自動起床装置』(文藝春秋芥川賞受賞作)が周辺で格別の話題にはならなかったせいもあって読まずにいたのだが『もの食う人々』(角川文庫)あたりからの旺盛な著作・執筆活動が本屋の店頭で知らされる。追いかけっこしないのは、氏の言葉の過剰さに併走する体力が伴っていないからであった。引用される本などは、けっこう読んでいたものがあって、同質なもの(同時代性というのはちょっと嘘になるが)
を感受したが、それ以上に分け入ることはしないでいた。辺見庸という<作家の森>に入り込むのを避けていたわけだ。