分からないもの(1)

●;テレビ、新聞雑誌、単行本などの露出が多い多才な中沢新一氏の『哲学の東北』(青土社)を鞄に入れて行き帰りに読む。著作が多い中沢氏の本は(正直言って)ついていけない。この本は対談とインタビューなどで、ま、易しい本。氏の本をまともに読んだというのは嘘で、氏ほどの学殖を持ち合わせていないのが最大の理由。(親しく話したことはなく、むろん、向こうが知っている訳ではなく)どこかで会った時に眼で挨拶する程度(といっても挨拶される彼も「誰だっけ?」と、いぶかしむと思うけれど、こっちが好意を持っていると何か<敬意のようなもの>が無意識的に伝わるような気がする(うぬぼれ…だなぁ)。氏が唱えている「芸術人類学」も、よくは分からない。『対称性人類学』(講談社選書メチェ)について、松岡正剛氏が「表題編集賞を贈呈したいくらいに、タイトルはフォトジェニックだ」と記していたけれども、処女作の『チベットモーツアルト』(せりか書房)以来、タイトル・ネーミングはすこぶるうまい。エロティシズムがある。(たぶん)大人という他者のウケ方を知らず知らずのうちに覚えてしまった感受性の強い子どもだったのだろう。その巧まざるコピーライターぶり(=作家性)が氏の真骨頂。その点、人たらしのレトリック王(難解王とも言っていた)谷川雁と似ている。本をひっくり返し、年末〜に格闘してみよう。「分からないこと」を放ったままでいるのは、基本的によくない(精神の怠惰というものだろう)。