●;情報について(1)

●;《コンテンツな人々》が蝟集している「わいがや;②」なる小さな集まりで、理工書に100冊以上タッチしたという元編集者の大学教師を捉えて、つきあいの長かった人が「彼は唯物論者なんです」と、回りに紹介した。「唯物論者」というタームが<旧いもの>に感じられる。戦前戦後、非合法左翼が存在してた頃、あるいは福本イズムなどが風靡した昭和初期には「唯物論者」と名乗る人もいたかな。「マルクスボーイ」と「モガ・モボ」が同席していた頃には。元編集者が「唯物論者」と名乗ったかどうかは知らないが「左翼」とか「右翼」という一般的なターム(=通俗的という意味で使っているのだが)で「人」の特質を「何々派とか○○世代とか」で強調する意味あいがよくわからない。ま、レッテル付けが好きな種族としかいいようがない。あるいは、世代体験の違いを事細かく(その差異)を言い当てて自己確認したがる(安心する)人がいる。
「俺は団塊だ!」と一括りにしてその世代の特質を強く語る人が周囲にいたけれども、「おいおい、あんたの言う団塊世代といっても、60年代末〜70年代初頭に「会社」に潜り込んだ大卒サラリーマンたちのことしか言っていないじゃないか」と混ぜっ返したことがある。「世代的特質」が彼の「共同意識」であった。それが所属感になり、安心している。「情報通」と称する輩がこの手のレッテル付けを好んで使う。彼らは、切れ端のような情報を所有しているのが誇らしげになる。《カテゴリーを異にする「情報(単位)と情報(単位)の関係性》を発見するような想像力を発揮する方向には向かわない。「噂の真相」(という雑誌があったが)レベルの噂話で止まってしまう。こういった連中の口癖は「ねぇ、ねぇ知ってる?」。
唯物論者」と紹介された元編集者が、若い時にマルクス主義文献(レーニン全集など)を学習して(されて)たかもしれない。出身大学やサークル、専攻学科によっては影響を与えた学者や評論家がいて、彼が政治党派に直接、または遠くからコミットしたことがあったとしても、今さら「ロシア・マルクス主義」を奉じている人とはとても思えない。むしろ「唯物論者」という紹介が事大主義的な物言いにしか過ぎない。彼がコミットした「党派政治の論理」をどう乗り越えて現在に至っているかにしか関心がない。(学生に限ってだが)三派全学連の時代にブンド、中核、青解、革マル、構改〜などの諸党派が大学毎に入り乱れて色分けされていたから、ものの言い方ひとつで「やつは……派だ」と勘ぐり「差異」の比べあいに興じたものだが、もはや何の意味もない。