下層の人、上層の人(3)

●;多作な人たちだが、ちょっとした感情の切れ端が棘にもなり、喉に引っかかって読まないでいた人の作品を読む気になる。藤原新也『何も願わない手を合わせる』(東京書籍・03年)と、辺見庸『眼の探索』(朝日新聞社・98年)を立て続けに読む。藤原氏の『東京漂流』(情報センター出版局)が評判になった頃、パラパラ読んで「ま、この人はいいや」と遠ざけた。「メメント・モリ」など死者の側に立ってのファインダーを覗いて写し取る<捕捉する眼>は、印度放浪など死者が転がっている地域を旅して来たこの人ならではの独自性があることは認めても、どこか社会評論風に納まってしまう文章がいただけない思ったりしたものだ。80年代初頭、一流大学卒のエリート・サラリーマンの父親を浪人中の少年が金属バットで殺した事件が大きく報道された。「エリート」には縁のない世界に棲んでいたから、今はさして驚かない親殺し(その逆の子殺し)が続発しているからではなく、当時は何か格別に異様な事件として捉えられた。モーレツ・サラリーマン家庭の悲劇といった出来合いのロジックが定着したように思う。氏はその家のたたずまいを被写体として捉えていたが(私の受取りかたは)家族の中には惨劇が潜んでいるのであって、特別に異常視する必要はないぜという反発があった。
●;辺見庸氏の『自動起床装置』(文藝春秋芥川賞受賞作)が周辺で格別の話題にはならなかったせいもあって読まずにいたのだが『もの食う人々』(角川文庫)あたりからの旺盛な著作・執筆活動が本屋の店頭で知らされる。追いかけっこしないのは、氏の言葉の過剰さに併走する体力が伴っていないからであった。引用される本などは、けっこう読んでいたものがあって、同質なもの(同時代性というのはちょっと嘘になるが)
を感受したが、それ以上に分け入ることはしないでいた。辺見庸という<作家の森>に入り込むのを避けていたわけだ。