下層の人、上層の人(2)

●;週末、本田靖春著『我、拗ね者として生涯を閉ず』(講談社・05年)を読む。B5版・584ページほどの重たい大冊。分厚く持ち運びのには不向きの本だが、カバー表紙に納められている本田氏のキリッとした写真がいい。それに被せたタイトルの書体も力強い。背文字のタイトルのインパクトで手に取る気になった。本の意思が伝わる装幀になっている。講談社編集局長らよる「編集後記的なあとがき」によると、本田氏は「この本は発行元の講談社編集部に捧ぐ」と献辞をしたかった、と。こんな大冊になっているのも「現代」連載時の編集スタッフと著者の篤い関係があったのだろう。本の奥付には4刷とある。売れたのかな?
本田氏ら名の知られたノンフィクション作家の作品を読んだことがあるが、一篇だけで終わってしまった人もいる。本田氏の本はろくに読んだことがなかったが、この本は<持つべき本>、<本田靖春という存在は記憶にとどめていい稀有な人>であった。死ぬ間際まで「含羞の人」であった。<拗ね者>と自己規定をしながらく小骨なれども私の骨>、<由緒正しい貧乏人>と自称する人からの呟きが流れている(私もある由緒ある上層の人に向かって「三代前は馬の骨」と自己紹介したことがあるが)。
この本の元になっている「現代」誌連載中に大きな手術(大腸ガン→糖尿病併発で左右の足切断、右手指切断とか)をして、何度か休載。車椅子生活だから外へ出掛けられない氏は、日頃見るテレビ画面の中で「飽食ニッポン」の現象一つ一つに苛立ち、吠えている。この本では、読売新聞社会部時代を描いた部分がビビッド、圧巻。生涯社会部記者でありたかったという、その原初的な姿がありあり。

《私の物書きの原点は、敗戦体験にある。旧植民地の支配層の末端から、日本の最下層に転げ落ちて、私は社会を見る眼を徐々に開いていく…人間には上昇志向というものがある。私は内なるそいつをひねりつぶす必要があった。それは取りもなおさず、おのれの出自を裏切らない、ということである。裏切ったら、ご先祖様に申し訳ないではないか》(@本田靖春

下層から<社会批判>へという志は、フリーの物書きになってからも続く。氏の原風景は、昭和30年代(高度成長期以前)の日本社会であったようだ。同時代感こそないが、皆が貧乏であったけれども、そこには「恥じらい」やいたわりなど日本のムラ社会を形成していた下層の人々にはそれなりのエートスがあった。谷川雁が言うところの「下降するアジアの村のエネルギー」に満ち溢れていたように氏は、身の回りを描いている。