●;葬儀について

●;時代小説好きの本読み氏が、吉村昭『死顔』(新潮社)の書評をメールで送ってきた。その本に吉村夫人・津村節子氏の「遺作について」との一文があるそうだ。引用してみる。

吉村は入院前に「延命治療は望まない。葬式は私(津村節子)と長男長女一家のみの家族葬で、親戚にも死顔を見せぬよう」などの「克明な遺書」を書き残し、また、死を逃れないものとして受け止め、延命治療を自らの意志で拒否すべく延命器具を取り払う父の行動に「娘は泣きながら、お母さんもういいよね」と言った。

●;正月早々、長く患っていた身内が逝く。家族だけの小さい葬儀を行ったばかりの後処理でざわついているところ、朝刊で昔の同僚の「死亡記事」を発見。ヘビーな病いであることを知らされ、何人かの元同僚が訪ねようとしたが、ちょっとした感情の行き違いから見舞いをエスケープしていた。「まだまだ、死にはせんよ」と言う別の元同僚の見解に同調していたところもある。朝方、「花環を有志一同で贈りたいが、どうする?」と電話あり。「ウーン」と生返事。死者を前にはしゃいでいる訳ではないだろうが(モグモグ〜)というのが私の見解。「故人の意思だから〜」と遺族が葬儀を立派なところ(格式のある寺など)で「やる」家もある。ま、それもいい。生き方の問題だ。親類の者にも死顔を見せない」という吉村昭の「生き方意志」には軟弱な妥協的な心根を跳ね返す鋼のような精神の強度を感じる。偶々、手にしている車谷長吉の『文士の魂』(朝日新聞社)がある。吉村昭は「士魂」の持ち主。(私もそうだが)小賢しい亜インテリには、知的上昇欲に伴う自尊心、その世界での虚栄心、しかも敗北を認めざるを得ない現実につき合わされた結果の悔しさが重なっての劣等感というヤツが一人の男に棲息している。「プライドとミエとコンプレックス」の三相を持って「人」は醜悪な悪人にもなる…<自分>という砦に立て籠もって。
●;深夜、メールを開いたら、年若のある社長の訃報を知る。(少しばかり滞在した会社で一緒…といっても仕事を共にしたことがなかったが)。昨年だったか、その会社に働いていた女性がある賞を貰っての「お祝いパーティ」の二次会で少しばかり口を聞き、「人」を寄せ付けない切れ者と想像していたが、無駄話していてシャープな(明るい)クリアな表現をするヤツと発見し「イメージで捉えていた男」の違いを見つけ、その落差感がたまらなく、好感を持った記憶が残っていた。