●;再び「ポビュリズム」理解のために

●;年末に佐藤優国家の罠』(新潮社)を読んだことがあってか、また正月休みにだらしなく、テレビを見続けたこと等もあってか、「ポピュリズム」についてさらに「理解」を求めたくなり(格好の本かどうかは知らないが)大嶽秀夫『日本のポピュリズム』(中公新書)を手にする。アンチョコ的な解説書(ではないだろうが)で概念的な理解を深めたくなった。佐藤優と対になって鈴木宗男氏を屠っていたのは「週刊誌(中吊り見出し)とワイドショー」と『国家の罠』で記していた。「世論喚起メデイア」という訳か。
通勤時間の車中(夕刊紙も含めて)、出勤前の「ワイドショー」という《日常的な時間占有メディア》が、山本七平氏のいう「空気(=臨在的把握)支配」のツールになっていることか。改めて言うほどのこともない。ただ、事象の《感情化》《人間化》《単純化》のストーリーに乗せて運ばれていることは確か。
それらの「仮象化」に即したことばと仕草を演ずる瞬間芸の持ち主をテレビ局氏らは素早くみつける。田中真紀子のようなトリツクスターが絶叫すればするほど「人」は「おもしろい!」と言って手を叩く。彼女のオヤジギャグ的な悪口(とりわけ政敵への)が、民放局のディレクター連中をして「使える時にはとことん使え!」になるのであろう(視聴率が取れるのであれば〜、要するにお金になるからだ)。一時、流行っていたサッチーこと野村監督夫人も、同じ。一昔前のワイドショーが女性週刊誌をネタ本にしていたと聞くが、スキャンダルを起こしたタレントや「結婚」とかした彼らにマイクを向けるレポーター氏らと、いつかナントカ大臣の一言一句を取るためにレコーダーを向けているぶら下がり記者たちをどこぞやのホテルで見かけたが、政治部記者の一群であったが、つまらない仕事だなぁと思ったものだ。
●;久米宏の「報道ステーション」が「政治家たち」を番組に登場させて久米がヒトコトのコメントを放つスタイルが定着しはじめてから「朝〜夕」のワイドショーが変わったように思える。有名タレントのスキャンダル、無名の人がやらかしたグロテスクな犯罪までをキャスター氏のお喋りなコメントで完結させる。「時間」は彼らによって占有され、見ている私らもまた彼らのような印象批評をブレンドして(どこかで)口ずさんでいる。