●;宮内勝典『焼身』を読む

●;宮内勝典焼身』(集英社・05刊)を手に取る。この作家を若い時から(多少)知っていて、デビュー仕立ての頃は小説も読んだものだが、最近はとんとご無沙汰していた。オウム事件の頃、加賀乙彦氏との対談か何かで「彼らを救うものは<文学>しかない」みたいな文学の信徒みたいな宣言を読んで(ちょっと)引いた。意気込みはいいのだが<文学というもの>を信じている姿勢、高みからの「オウム」批判と同じ(そんなこと言うのかよ)、と。氏は若いときから<魂のありか>を探る内省的な旅を繰り返している。それはアメリカ・インディアンだったり、与論島だったり、ニカラグア戦線だったり、野辺山の天文学研究所だったり〜。私などが経験することのない異境の世界ではあるが「で、どうした?」と、読者は勝手に作家に想像力を過剰に要求する。『焼身』はガソリンを浴び抗議死したサイゴンの僧侶を追いかける旅がテーマ。焼身した僧侶の写真を見たのがNYの公園か何かの新聞だったという「記憶の間違い」。「記憶は捏造される」とは、キーワードになっている。

人の心というやつは、恐竜がうろつくような醜悪でおぞましい暗黒部から、グレーゾーンや、我が身さえ犠牲にするきよらかな領域まで、複雑なグラデーションをなしている。戦争があり、のどかな小春日和がある。暴力があり、非暴力がある。どちらもわたしたちの正体であり、まさにみのわたしの本性である…『焼身』からの引用

僧侶はカンボジアにいたという痕跡があり、森の奥に潜み、150万〜200万の同胞を殺戮したポル・ポト、もう一方の僧侶は、国の泰平と安楽を祈願して当時のベトナム政権の独裁に抗してガソリンをかぶる。<現代史的なもの>への問いになっている。