●;『嫌老社会』という本から(5)

●;《繭のようにコトバが紡ぎ出される本》というのがある。本の中で使われている「引用」や「注記」に「あぁ、そうだったのか」と教えられる場合も多々あるし、文中に使われているコトバから少しは読んでいた(あるいは知っていた)「本の記憶」(という糸)が引き出される。「本」に限る訳ではないが<人の営為の豊穣さ>を受け取ることは、快い気分になる。そういった本は「記憶にあった僅かのシーン」までも引きずり出してくれる器だ。
長沼行太郎著『嫌老社会』(ソフトバンク新書)は、サブタイトルが「老いを拒絶する時代」とあるように<賛老>であった時代から<嫌老社会>になっている現在の諸相をいくつか取り出して「キーワード」を捻り出しているので、いろいろな「糸」が出てくる。
●;例えば「認知症」についてもだ。私らは自分らの今後も含め親世代の「認知症」を抱えている(だけではないが)。「認知症」というコトバが定着する以前は「痴呆症」だったと思うが、親族の誰かが「認知症」になって親類の家族が苦労を強いられている話はどこか遠くで聞いていたが、十年ほど前だったか耕治人氏作品の「そうかも知れない」を基にしたNHKドキュメンタリー番組を見て「痴呆症と家族問題」の身近さを知った覚えがある。「認知症」になりかかっている妻の「下の世話」をしながら「どなたですか?」との妻の問いに答える自分の姿を私小説化したもので、たしかその頃の読売文学賞を受賞した。それから二三年して晶文社から「耕治人全集」が出版された。一巻が五千円を超えていたので、手を出せなかったが、老妻と老夫の物語として記憶に残っている。「そうかもしれない」は、昨年、映画になったそうだ。老妻に扮したのは雪村いづみさん。耕治人氏の文学について荒川洋治氏が触れていたのを知る。
●;長沼氏は、命を縮めても老年の性の快楽を追求した谷崎潤一郎の『瘋癲老人日記』を引用しているが、最近亡くなった小島信夫氏の『残光』や岡田睦氏の「群像」だったかの連載を走り読みした。とりわけ独居老人の日常を描いている後者は<明るく>、読者として親密感が沸いたのを覚えている。「高齢者も成長を続ける人間である」(@長沼行太郎
脳梗塞で倒れた後も半身不随で嚥下障害になっても研究・執筆活動をしている免疫学者の多田富雄氏の一文を「引用」している。

「老いという不規則で不連続な多重構造を自分の中に育てるためには……生物というものが規則的で連続的な被造物であるという思想を捨てること……」(多田富雄『老いの様式』)