●;『嫌老社会』という本から(4)

●;長沼行太郎『嫌老社会』は考えさせられる本だ。《長くなった老後》に向き合っているのは認めても、なお<不安の正体>を証さずに「問題の先送り」をしているのが個々人の実相である。60前後(団塊世代前後)の高年者の悩みとはく最大のご迷惑を誰かにかけるかしれないという不安>である。息子や娘夫婦の家族にも自分らと同じような「親や祖父母」がいる。そして、死ぬまで生き続けなければいけない自分を成立させるべき「経済的不安」(=おカネ)と、支える「労働力商品価値の低下不安」に付け加え、親の世代も含め身辺に忍び寄る「認知症」の存在である。「認知症」になるかも知れない<健康不安>を避けつつも、身の回りの「認知症患者」を「醜悪なもの」として見ていた(早くいなくなってくれ!と呟いた)自分(心の奥底で忌んだことの<怖れ>)を見つけている。
●;(一部の)富裕層目当ての「高価でおシャレな有料老人ホーム」(現代版姥捨山)が作られ、宣伝-販売されていて金持ち家族は「介護するトシヨリ」を収容しているが、介護保険料+@でまかなう「特養老人ホーム」に入れた人はラッキーと言われるような介護の現実。「施設スタッフのブログ」の述懐。《特養と有料ではご入居者とスタッフの比率が全く違うのだ。悲しいがお金なのだ》。トシヨリは、今の「居場所」どころか「死に場所」すら探せない現実に晒されている。「地獄の沙汰も金次第」というわけだ。