●;戦争論を読む(2)

●;書斎でもないがPCの置き場所を別の部屋に移動する。ついでに溜まっていた文庫本や新書などを含め若干片づけ始める。駄本というか、禄でもない本を買い集めたものだ。中には著者から贈られた本もあるが、少しの間は棚に置いておいていたが(失礼ながら)永く取っておくようなものは少ない。ゴミ本のたぐいばかりである。休みの日に近くの図書館へ寄贈しよう思って紙袋に詰めはじめたら4袋ほどになってしまった。自転車では運べないので車で運ぶとする。
ブックオフ」は愛用する方だが、あそこでは本を売る気が起きない。「驚くほどの安さ」からではない。店員さんのかけ声は威勢がよく、その態度は別に悪くはないのだけれど、「本」をぞんざいに扱っている感じがしないでもない。家近くの古本屋に「本」をザックに入れぶしつけに店で拡げ、主人がお金勘定をしてくれるのを待つほんの間は、しばしの引け目感を覚える。値段をつけてくれたものと引き替えに棚にある「本」と交換する。行く時の重さに比べ半分以下だが「めぼしい本」を選んだことで少しだけ高揚した気分になったものだ。
●;若干、棚を分類する。辞書の類や、けっこう買ってある「キーワード集的な本(雑誌の別冊)」は一箇所に。「現代思想のキーワード」とか「知の先端の18人」とかいった安直といえばそれまでだが、私にとっては辞書みたいな本である。天皇制/現代史/中世史/経済もの/マーケティングもの/好きな作家のもの/東京論的な都市論ものとかを並べると「戦争論的なもの」がいくつか出てきた。大西巨人などの「軍隊もの」もある。捨てない本の部類だ。西谷修戦争論』(講談社学術文庫)を拾い読む。

「文明諸国」が野蛮な「無法者」を退治するという、子供向きの「正義」を絵にかいたようなこの戦争(*湾岸戦争のこと)は、またきわめて「文明化」された「清潔な」戦争でもあった。最先端のテクノロジーを駆使した外科手術のように(あるいは「放射線」治療のように)、世界という身体が手術台に載せられ、病巣に冒された部位を軍事衛星がこうこうと照らし出す。そして患部の周囲が空からの大量の爆弾で念入りに消毒され、戦闘機のレーザーメスが寸分の狂いもな精確に患部を焼き払う。そのうえ、みごとな光景が、先端技術の勲として全世界に公表されるのだ。

●;核兵器はずっと「最終(戦争)兵器」とされてきた。米ソ共通に「破滅兵器」はお互いの破滅をもたらす「危険な(触らない)神」として君臨してきた。各地で米ソ国家間の代理戦争の戦闘はあっても「大戦争は不可能」になったとされてきた。冷戦が終結し「戦争の不可能性」が終結したかのような時に「破滅の怖れ」のない(かどうか判らないが)小型核爆弾所有を宣言する国家が出現している。