●;戦争論を読む(1)

●;「国家は国民の同意を必要とする」といった(前提的な言説を)ある「ブログ」で見た。あたりまえじゃん…とコメントした。pikarrr氏の言う「ちょい参加」である。フーコーが言っている「生政治」の領域に入っているのは、常識じゃん、と。ポール・ヴィリリオは、『速度と政治』(平凡社)などで言っている。

《20世紀は「戦争と革命」の世紀》と言ったのは埴谷雄高だが、このフレーズのロマンチックな響きに惹かれた<時代の児>である私らは、「軍事技術の進化」を遂げてきた21世紀のまっただ中に生きている。兵士が槍を投げて戦っていた古代〜中世は、槍の速度を眼で捉えることができ、ヒラリとかわす事もできた。槍が弾丸に変わり、その技術速度は、避けることが不可能になった。地上で始まった戦闘が、やがて戦艦によって海上でも行われ、戦闘機の登場は、陸海を覆う空間をも戦場に変えてしまう。地球空間を全て戦場にしてしまった後に残った宇宙空間すらも、戦闘に加担する能力を備えた人工衛星によって戦場と化してしまう(湾岸戦争がそうであったし、その後のアフガン、イラク戦争も)逃げ果せる「時空間」はない。新しい兵器は、逃走する時空間をより一層われわれから奪う。その意味で広島・長崎に投下された核爆弾は世界史に大きなインパクトをもたらしたといえる。「ピカ!ドン!」には逃げおおせる空間は皆無だった。核兵器を頂点とする兵器の高性能化は、ありとあらゆる時空間を消滅させた。「救われる時間」を奪い取る。それが20世紀以降の現実である。

●;政治は権力争奪のゲームである。戦争は政治の継続である。支配階級と呼ばれる集団が存在する場合、それは少数の人々からなる。国民が全員参加して統治の側に回ることはありえない。万人が万人を統治することはない。少数者が権力を独占するゲームが政治である。政治の法則は「支配階級」と「非支配階級」の、エリートと非エリートの間の分化である。エリートの支配は「力と欺瞞」に基づいている。これは北朝鮮も日本もアメリカも同じである。社会構造は、歴史的累積の総体としての宗教、イデオロギー、神話などの政治的形式によって統合され、支えられている。