●;ポピュリズム(5)

内田樹著『知に働けば蔵が立つ』(文藝春秋・05刊)は、氏の「ブログ」を基にしていて(いつか読んだものが含まれているが)通俗的に(=判ったつもりの)こチラ側は簡単に「大衆社会」と言うタームを使ってしまうけれど、通俗的な口舌の徒である私(ら)は(わかったつもりで「大衆社会」についての言い草で終始してしまう。苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ―学歴主義と平等神話の戦後史』(中公新書・95刊)の書評で内田氏は言っている。

意欲をもつものともたざる者、努力を続ける者と避ける者、自ら学ぼうとする者と学びから降りる者との二極分化の進行であり、さらに問題と思われるのは、降りた者たちを自己満足・自己肯定へと誘うメカニズムの作動である。

<自己満足・自己肯定へと誘うメカニズムの作動>の現象に対する批判(今どきの「若い者批判」から「ワイドショー批判」まで)しているつもりで事終えているが、そのメカニズムの経路についてよく分からないでいる。ここが肝心だ。

オルテガは「大衆」をこう定義する。
「大衆とは、自分が『みんなと同じ』だと感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じてかえっていい気持ちになる、そのような人々全部である」。この言葉遣いは一見するとニーチェの「畜群論」によく似ている。しかし、両者のあいだには、決定的な違いがあると私は思う。
オルテガは「自分以外のいかなる権威にもみずから訴えかける習慣をもたず」、「ありのままで満足している」ことを「大衆」の条件とした。オルテガ的「大衆」は、自分が「知的に完全である」と思い上がり、「自分の外にあるものの必要性を感じない」ままに深い満足のうちに自己閉塞している。これはニーチェが彼の「貴族」を描写した言葉とほとんど変わらない。つまり、ニーチェにおいて「貴族」の特権であった「勝ち誇った自己肯定」が社会全体に蔓延した状態、それが、オルテガの「大衆社会」なのである。