●;ポピュリズム(4)

●;「感情的ポリティクス」というキーワードを発している宮台真司氏の「プログ」を引用すると、

…世界的に「感情の政治」が隆盛で、特に米国は「感情ゲーム=私」を超克する「契約ゲーム=公」が崩れてきた。第一に、感情に社会的正統性を与える宗教が、メディア宗教化し、既製感情に媚びるポピュリズムになった。第二にそれに並行して、契約ゲームに参加しない者に激烈な感情をぶつけ始めた。欧州は激烈に反発するが、日本はそうした「崩れた米国」に親和性が高い。感情ゲームを制圧する契約ゲームがないから、団体的動員を支える共同体が空洞化すると、小泉的「感情の政治」になる。

●;「戦争と革命の20世紀」は「大衆社会」を経ざるを得ないが故に、ヒトラーはもとよりスターリンケネディ毛沢東文化大革命はその極限)らもその轍に乗らざるを得ない。しかも「大衆社会」は旧来の共同体を解体して進む。戦後日本の「団体的動員」を支えた団体に(企業別)組合、農協、遺族会など多々あったが、空洞化が進むにつれ一部のメディア化された宗教の信徒以外は、ポピュリストが演じる「感情ゲーム」につき動かされる。
●;リースマン『孤独な群衆』(みすず書房)が言う《他人指向型の人間》が増えているのだろう。「他人に対する敏感さ」とみに増大し「(誰かに)見られている快楽」、「(どこかで)見た人への近接感」などなど。逆に「見えない人」に対する倦厭感たけは過剰になり、社会構造の変化への「不安」が加重され、生産よりも消費に対する関心が増えていく。子どもに対する親の自信のなさと裏腹に監護力は弱体化していく。対人関係は「人間劇の舞台装置」(=例えば劇場化)として捉え、「弱者」への腹いせのような事件があたかも波動のように連鎖していく。視界から消えていくのは、何か。歴史であり、記憶であり、複雑なもの、自然への畏れなどだ。