本に近づく(読む)理由(2)

●;寝入いってしまい、つけっぱなしのテレビ「朝まで生テレビ」(テレビ朝日)が光っていた。「あぁ、あの人ねぇ」と、お馴染みの論客?たち。田中均氏…元外務省審議官の話は聞きそびれた。司会の田原総一郎氏が「加藤紘一邸放火事件後、朝日新聞をはじめ各新聞、テレビが反キャンペーンを行わないのは、おかしいよ」といったアジテーション調の声が聞こえてきた。昭和初期のテロを想起させると書いたのは(田原が掲げていた)東京新聞のようだ。「困ったことですな」ぐらいにしか言わない宰相や官房長官の談話を聞いた覚えがあるが、その後の各紙誌をつぶさにひもといていないが「これは、おおごとだ」みたいなキャンペーンは起こっていない。新聞社(記者たち)テレビ局報道局連中の鈍感か怖れかはわからない。読者-視聴者からの<孤立感>が(彼らが)動かないでいる無気力の理由のような気がする(編集権を握っている幹部連中が)。
●;朝日新聞兵庫支局がテロられた後(若い記者が亡くなった)の朝日新聞のこぞっての反テロリズム・キャンペーン記事を何度か見せられた記憶がある。「言論の自由の砦」である新聞攻撃は許さん〜みたいな論調だったと思う。それに引き替え、加藤邸砲火事件は、軽く(小さく)扱われている。不届きな言い方をすれば誰かが「殺されなかった」からか。
●;「メディアこそポピュリズム」(@宮崎学)という説に手を鳴らす認識はないが、加藤邸放火事件後のマスメディアに「批判の減退傾向」のようなものは感じる。いきなり、敵国を仮想してナショナリズムが興っている訳ではないと思うが、ロシア警備艇に威嚇射撃されて射殺された漁船員の事件報道はあるけれども「ロシア憎し」の声は大衆的に起こっていない。
●;「感情的ポリティクス」(@宮台真司)は、ポピュリズムの一つであろう。「資本の過剰→グロバリぜーション→脱領域化」の流れ(=「過剰流動化」の中で「不安」におののく私(ら)は「自らの選択肢」を選ぶのに確信が持てない。誰かがスッキリと(わかりやすく)と声高く叫ぶリーダーに背中を押されるのを待ち望んでいる気がして拍手を送る。そんな<空気>が漂っている。
●;ふと、(今まですれ違っていてろくに読んでいなかった)山本七平『空気の研究』(文春文庫)を引っ張り出す。《空気=臨在的把握》というのがキーワードになっている。