●;「メディアカバー」というコトバ

●;「立花隆のブログ」を読んでいたら、

靖国参拝のように、100%のメディアカバーがある中で行われる言行は、いかなる意味でも「心の問題」の論理で済ますことができない言行となる。それは必然的に国家を代表する公人の言行として、その行為それ自体が発するある種のメッセージを含んだ言行に〜。

広報セクションでは当たり前に使っているかもしれないが「メディアカバー」とは耳慣れない。総理大臣の一挙手一頭足をメディアなどが追う。ボイスレコーダーを差し出す番記者たちや、しわぶき一つにズームインするテレビカメラなどが群がり追いかける光景を見る。規制内容に変化はあるだろうが、天皇もまた同じように晒される。原武史氏が保阪正康氏との共著『対論・昭和天皇』(文春新書)の中で「時を統べる王」「空間を統べる王」と天皇による時の支配、視覚による支配を語っていたが、シンボリスティックな天皇であれ、リアルな権力者である首相であれ、その言行はお庭番的なメディアに晒される。むろん「メディアの伝達力」の使い道と、その効用を知悉しているから、お側に勤める者たち(=官僚)のコントロールがちゃとあって、こういったたかがの「ブログ」の落書きの類まで「管理」されているだろうが、彼らが描かれ、批評され、論述されること自体は、拒まない。権力を支える構造として民衆の支持をとりつけるのが為政者の便法だからだ。多木浩二天皇の肖像』(岩波現代文庫)でも知ったが、小泉や安倍晋三などの‘人気者’を携帯カメラで撮るフツーの人々の歓心と、手を振る「王」は呼応する。
●;「参拝は(私の)心の問題だ」と言い続け「公人としての言行」の説明ないまま、参拝が執り行われるや「(ずっと)日中友好論者」だったと言い切る調子のよい宰相は、ナショナリストとなる。あたかも「異論排除」の例のように、加藤紘一邸の焼き打ち事件、興る。