●;墓参りで「人」に会う

●;小泉首相靖国参拝するかどうかとかまびすしい盆の入り、高速道路を駆け抜け墓参りを済ませる。父母が育った<ある地方>の農村家庭(家族)のそれぞれの<荒れ>。《儲からない米作》、《高齢化社会》、《気になる<病>》、従兄弟たちの息子、娘たちは「正規社員就職組もあれば、流行の派遣社員に」。
●;「靖国問題」で新聞やテレビ番組に登場した識者たちの発言。「小泉首相の政局利用」…宮崎学氏(TBS/NEWS23)。総裁選で橋本龍太郎に勝つために日本遺族会への「約束」が、いつのまに「公約」に。自民党の票田・日本遺族会への「約束」を果たさなければならない理由がよくわからない。「小泉さんは文学的なんですよ」(加藤紘一氏・06/8/15「テレビ朝日」モーニングショーで)と言うように「知覧の特攻隊記念館」での係員の語り部的な伴奏に涙するのが「文学的」かねぇ。戦死者の大半が餓死だったという事実を抜いて臆面もなく全てを「英霊」という超越性を盾に死者もまた「政局利用」か。
上坂冬子東条英機の孫娘らの「A級戦犯は死んで国に殉じた」という論理の非歴史性。
●;立花隆が言っているように、敗戦を受け入れた時点で日本国家は「変化」させられたのだ。ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』(岩波書店)を読めば、「国体の護持」(=天皇家の存続)と引き換えに敗戦を受け入れた過程がわかる。東京裁判は勝者の裁きと断ずる彼らは、敗戦を絶対に受け入れないとでも言うのだろうか。

日本の戦後の再出発は、すべて、あの戦争の清算の上に立てられたのだから、それを乱すようなことは、国家としてできないのである。
具体的にいえば、ポツダム宣言の受け入れ。その帰結としてのミズリー号上の降伏文書調印。またポツダム宣言受諾の結果として国家主権を全部占領軍のコントロール下に置き、国家システムのすべてを占領軍の命令によって変更していくことの受け入れ。そして同時にあの戦争を清算するための儀式としての東京裁判の受け入れ。その受け入れを表明した上で結ばれたサンフランシスコ講和条約、この一連の出来事のすべてが、どの一つも揺るがせにできない国家の戦争敗北の約束そのものなのである。それは受け入れるしか選択の余地がないものである。