●;近づく本、遠ざかる本(1)

●;「本」は人である。当たり前だ。その「本」の存在を何かで知る。どこぞやのメディアが薦めていたり(誰かの)「引用」や「評価」が加わったり〜を知らされると、その「本」が気に掛かる。大概の「書評」は、秋波だ。じゃあ、その本をすぐ求めるかというとそうでもない。品の悪い喩えだが「本」は<女>に似ている。触れたくは思ってもピシャリと、はねつけられそうで「本」(女)から遠ざかる時もある。「本」と読み手である<男の私>が重なる部分があればその「本」に近づき、ページを捲る。
「本と読み手との関係」は、極めて性的と、ごく当然のことを言っているのだが、すが秀実革命的な、あまりに革命的な…1968年革命史論』(作品社)を手にし分厚い400頁のこの本を近くの図書館で見つける。表紙を見て「ゲッ!またまた仰々しいタイトルだな」と。著者や渡部直巳(ら)が「1968年革命」と言い出しているのが、よくわからないのが本音で、本を開くとエンピツで傍線がいっぱい。全ページ真っ黒になっている。図書館本を借りる人にはあるまじき行為と思ったけれども(悪意とは思わず)。かくも執拗な読者がいるかと思うと気にならなくなった。何度か往ったり戻ったりして読む。「なかなか読み応えのある本」であった。「ハハーン、フムフム」と頷く箇所が二〜三あった。
●;「68年革命〜の本」は当事者たちの手記も含め、(すが秀実が「愚劣な本」と規定している)『全共闘白書』(新潮社)の類など数多くあるが、ほとんどが「消費される書物」であって記憶に値する本は少ない。前世代の「60年安保アクティビティたち」の‘青春グラフティ’ともいうべき西部邁著『60年安保…センチメンタル・ジャーニー』(文藝春秋)と『生田浩二追悼遺稿集』(非売品)。68世代の小嵐九八郎著『蜂起には至らず新左翼死人列伝』(講談社)などは「講談社のPR誌」で読んでいたが、小嵐氏のモチーフは判るが、読み通すには辛い本である。これは<遠ざかる本>の部類に入る。