●;地霊;吉村昭《逃げる男》(1)

●;鈴木博之氏の『東京の[地霊]』(文春文庫)、『日本の地霊』(講談社新書)ほかで教えられたのだが、<ゲニウス・ロギ>(ラテン語)という概念がある。精霊というのだろうか、その場所に漂っている精気のようなもののこと、経験的にもそこに蓄積されている<土地の記憶>というやつを受感することがある。その土地の歴史や場所性を切り離して抽象的な実利的な施設や建物が続々と建てられその偉容なりが称揚され人々が蝟集し、その繰り返しが<近代>というシロモノである。吉原の女たちの墓が段上に積み重なって祀ってある箕輪の浄閑寺も、永井荷風ならずとも遊女たちの霊気に打たれる。
●;吉村昭の歴史記録小説を読むと、歴史上の土地への関心が興ってくる。『長英逃亡』(新潮文庫)は傑作だが、長英の出身地である岩手県水沢市(今は市町村合併奥州市と変わったらしい)には、いつか訪ねてみたいものだ(生家の跡地?に「高野長英記念館」のようなものがあるらしい)。吉村昭氏のエッセイだったかに「徴兵検査を逃れて生き残ったことがどこか後ろめたく《逃げる》が小説のモチーフになっているといったところがあり(正確ではないが)、「安政の大獄」で囚われたものの小伝馬町の牢から脱獄、江戸〜川越、群馬〜新潟〜、四国・宇和島と日本列島を思いっきり逃げまくる。ただ、最後は江戸の青山に戻って捕縛され、逃げおおせなかった長英にシンパシーを覚えた。
《逃げる》が氏のモチーフとすれば、筑波山蜂起から福井・鯖江まで逃げまくり、そして鰊倉で果てた幕末の壮大な無駄なエネルギー、水戸天狗党を綴った『天狗争乱』(朝日文庫)もそうであり、。井伊大老暗殺を謀った水戸浪士たちを描いた『桜田門外の変』(新潮社)も、逃げ延びたもののついには捕縄された男・関鉄之助が主人公。
●;『彰義隊』(朝日新聞社)の主人公は、輪王寺宮(後の白川宮、明治天皇の伯父にあたる皇族)。いつか上野の山を訪れた時に輪王寺宮の門扉に彰義隊の戦いの銃痕が残っているのを見たことがあり、百数十年前の幕末〜維新の爪痕を受感したものだ。薄幸の皇族ともいうべき輪王寺宮もまた上野・寛永寺を追われ奥州へと<逃げた>男である。《逃げた男たち》の末路は、哀しみという<重さ>がある。