●;新聞の白抜き見出し

●;新聞印刷技術史を紐解けばいいのだろうけど、「白抜き文字の見出し」がいつの頃から使用されたのか知らないが、<社会的・政治的事件>は大きな「白抜き文字」の見だしが使われ、加えてモノクロ写真といっしょに構成される。新聞社整理部が作り出す構図、「視覚のデザイン政治学?」とでも言うべき「視線の統合支配」のデザイン批評は『キムラカメラ』の木村恒久氏の仕事として記憶があるが、(日刊紙新聞が読まれなくなり、代わりに夕刊紙やスポーツ紙が「事件報道の拡大化」の役割を担い、テレビ(映像)報道が、影響が強いという説も耳にするとはいえ)、今なお、その視線の支配力、影響力を失っていない。
●;インクで汚れるかもと思うような真っ黒の真新しい新聞を手にする時は、「禍々しいこと」、「凶ごと」を‘待っている少年’のようになる。椿事を待っている!身の回りの日常的な繰り返しの生活を超えていく「この世ならぬもの」の出現を期待している。その「非日常的世界」にわが身を投じたくなるような誘惑がある。
新聞(社)のエクリチュールと視線の構図によって「事件化された」もの全てに影響される訳ではない。昭和天皇崩御の前後、そこまで報じるかよと思った「日々の下血状態」までが伝えられていて、いざ、亡くなった時は、予定稿も含め予定されていた大きな「白抜き見出し」に身体を震わすような驚きはなかった。
●;北朝鮮テポドンを始め、昨日今日といろいろな<事件報道>に際会しているけれど、事件の渦中に飛び込みたい衝動、「変事への期待」にかられる時がある。俗に言う「世を震撼させる日」だ。そんな身震える気分に陥るのは「わが日常」がたまらなく<不快>だからである。「非日常的な凶ごと」が、日常という垣根をエイャと越えて来る。その波動をもろに動物のように身体事受け止めるのは、「戦争や革命的な騒擾事件」によって我が身を取り巻く不快な秩序が一斉に壊れることを望んでいるからだ。