●;「本」から本」へ(1)

●;奈良の放火殺人事件に格別の驚きや感慨がある訳ではないが<少年たち>について<その像>を通俗的ではなく、きっちりと掴まえたくなり、たまたま、斎藤環若者のすべて』(PHP研究所)を手に取る。仕事になるかもと、小さな準備の面も少しはある。某社の編集長氏との雑談で「息子さんとのおしゃべりなんかやっていたのですか?」と訝るように聞かれ、中学か高校生の時、お互いが対立するでもなし、強制も拒否もなかった「父親との重たい寡黙であった時間」を思い出す。
●;本を捲ると《つかみ》がうまいとか、下手とかのイントロに続き「中井久夫…世界における索引と徴候の解題」という斎藤環氏の論文が再録されていた。中井氏が「索引と徴候」という対概念を提示しておられたようだ。「索引的つかみ」と「徴候的つかみ」という論、前者はゴダール、後者はデビッド・リンチという映画作家を例に環氏が展開していた。
中井久夫氏は記憶の人である」という、一文にギョッ。アイデティカー(直観像資質者…体験を正確な図像として記憶ー時には加工する」との記述あり。中井久夫のエッセイ集『記憶の肖像』(みすず書房)など啄むと、氏の記述が正鵠を得ている、と思う。松浦寿輝氏だったか、中井氏のエッセイを書評して「海軍士官のような」と形容していた(と思う)。その瑞々しい文章には過去のちょっとした事でも正確な像を提供してくれている。読む側を稟とさせる。それは「直観像のつかみが巧い」と、凡庸な言い方しか生まれないのだが。
●;「記憶の人、ねぇ」と思わず呟いてしまったが、ある時、あの緻密な記憶の膂力で引き出す文体はどうしてと、恥ずかしい質問をしたことがあり、「目の記憶ですよ」と優しく言ってのけたある作家を強烈に思いだす。古井由吉『辻』(新潮社)をレジに運ぶ。「辻」なんてもう見当たらなくなった。その「辻」をタイトルにして氏の「記憶の無意識」を絞り出す力に言葉なし。