●;昭和天皇(1)

●;昨秋の総選挙あたりの小泉首相の絶叫(的)演説を延々と映し出したテレビなどは一種の「視覚的支配」であろう。「視覚的支配」というコトバは原武史と保坂正康『対論 昭和天皇』(文春新書・94刊)から拾ったのだが、「時を統べる王」であった昭和天皇の「時間的支配」と併せてみると、マイクを差し出すぶら下がり記者に、適宜、放つ小泉首相の一言コメントも、定時のニュース番組で繰り返されるパターンによる「時間的支配」の一つと言えようか。権力者側の意図を構造的に何事も批判しなくなった(つまり、ジャーナリズムほ放棄した)テレビなど主要メディアの権力との相補的な関係とも相まって「二つの支配」が、ますます進化している最中に私らはいる。

小泉首相は60を過ぎて幼児性を保っているレアケース、首相の幼児性が彼ら(選挙民)の幼児性を引き出した。日本の大衆は時として権力が命ずる前に先走りして迎合する(『にっちもさっちも…人生は五十一から』小林信彦

●;「今の人々」の「幼児性」は、イラクで撃ち殺された外務省員の実家のたたずまいを映すテレビカメラに向かって、少年たちがVサインを送っているシーンをテレビが映しだした時の「いやな感じ」にも感じた。「オイ、オイ、人が死んだのだぞ」と言ってやりたかったが、テレビによく出ている有名人に携帯写メールを当てる「人々」とダブって来る。別に「今時の若者は〜」論議をする気はないが、昔、読んだ中岡哲郎の論文名「論理の不毛と倫理の優越」(「現代の発見」・春秋社)になぞらえれば、「論理の不毛と情緒(もしくは実感)の優越」である。