●;《場について》(2)

●;最近、「(何かの仕事で)ライブドアへ行って来ましたよ」と話しかけた人がいる。たまたま、六本木ヒルズより離れた場所にある「人」を訪ねこの異様に圧迫感のある名高いヒルズを見上げて歩いたことが重なり(その時、俺らとは無縁な場所だなと思いはしたが)、「で、どうだった?」と聞いた。聞きたかったのは、噂の会社の<雰囲気のようなもの>だった。センスがいいと思えないロゴが大きく掲げられた会社の受付風景やホリエモン全盛の頃のイブドア関係会社の執務風景をテレビで見たことがあり、えらく狭いところで、仕事してんだなぁと思ったものだ。ライブドア事件やその業務との接点もないし関心がないから、問いかけたのは<会社の雰囲気のようなもの>である。何階かの同社に行くのにはえらくガードが高かったこと若い(きれいな)女性たちが多かったことなどであった(ま、これは予想できる応え)。
●;人は、朝から日長見ている風景によって世界を納得する。あるいは「世界と自分の関係」を確かめる。かつて(今もか)「マドギワ族」というコトバがあり、(ホントかどうか知らないが)、リストラしようとする社員を窓の外の席に置いておいたという話を伝え聞いた。意地悪ではなく、彼が一体化しようとする内側の(会社の内部)を見やる時間を与えない処置であったのだろう。居心地悪いの悪い空間に一日中働く人間は、辛い。彼が一体化せんとする風景を遮断したのだ。
●;私のいう《場》とは「場所性」だけではない。ある場所に集うことで彼や彼女の顔やなにくれとない顔や発言の放射を浴びる空間のことを指す。そういう《場》は企業にも喫茶店にも酒場にもあるだろうが、《葉》としての成立根拠は内部的排他的ではないということである。そういった《場》がメディアを生み出すというのが、私の説であるが…ここは甘いと友人に指摘された。ウーン。働きかけがあれば確かに「人は集う」。が、そこから「何か」が生まれる訳ではないと言いたかったようだ。確かに同質性を人は集う。よくある同業者同士の慰安的なものも入っているが、<これまでとは違う異質なもの>を生み出すには彼らが「命がけの飛躍」をするかどうかにかかっている。