●;訃報(1)

●;悩み事というほどではないが、仕事上の進捗具合がイマイチだったこともあったし(予測の甘さが原因しているのだが)出かけなくてはならぬ得意先での仕事の段取りなどを思案していた重たい朝、モーニングショウが伝える犯罪事件などをテレビで見ながら素っ気ない朝飯を掻き込んでいた時、携帯が鳴る。朝っぱらの電話は<不吉なもの>を感じされる。緊急の報せである。後輩の奥さんからだ。「死体を損壊するような犯罪が多いのはなぜなんだろう」。家族間のひしめきが弱い子どもの身体を襲い、損壊し、果ては老妻は介護中の夫まで焼き殺す。この<荒れ>は高度成長社会が予想した「成熟社会」を跳びこえて一足飛びに「断末社会」の行き倒れ状態に突入している。「叫び」は組織化されずに。他者への畏れ(=関心)を失い続け、こんなとこまで来ちまったのかなどと思案していた時だ。
●;「主人が昨日、亡くなりまして…」。「エッ」「どうしてなんだよ」と、突然の報せに大声を出した。私より遙かに若い後輩を襲った病魔という理不尽な不届き者に対してだ。事務所から幾人かの元同輩、先輩たちに電話とメール。その後輩は私というヘンテコなヤツを面白がっていた。その「評価」は買いかぶりのところがあり、照れが伴うのだが、私もずるくて「評価される」と自惚れる。教えられるところが多かったのだけれども、転職やら勤務先の困ったことなどの相談事に乗ったりすることがあった。今年始めだったか、思いつきのリップサービスがしたくなり(なーに、コミュニケーションしたかっただけだ)、彼の【ケイタイ】に電話を入れたことがある。その時には病気で入院して痩せちまってみたいな話であった。「元気でいろよ」と気休め的な短い挨拶しか交わさなかった。大柄で人なつこい彼の存在を割と身近に受け取っていたから「なんでなんだよ」と怒ってしまったのだ。
●;雨の中、通夜の席まで行く途中、同行した後輩が務めていた出版社の編集長氏が雨に打たれて青々とした街路樹を指さして「あの樹なんだか知っていますか?」と言う。私は動物も植物にも関心がないし、ろくに名前を覚えられないのだと言い訳する。「草木や動物がいい、と感じられるとT社長が言うのですよ」と。社長の関心の対象が異なってきたのだと言う。「タカオカさんが好きなのは、やはり人ですか」と(アイロニーが感じられる一言。「うん、そうかもしれない」と呟く。
●;確かに私は「人」が好きだ。その「人」と二言三言話をしただけで、その飛沫を浴びるのが好き。カネ儲けは下手くそだから「いい思い」も「うまいメシ」にも「高い酒」にも縁がないのだけれど、逆に世代・性別、老若男女を問わず「面白い人」がいい。「面白い人」とは奥がある「人」のこと、幅と深さがあってのことだ。幅、受容する力と「ニンゲンの(精神の)底知れぬ悲哀の真実味を感じさせる「力」。カネ儲けの目的は「人」とのコミュニケーション時間のためにある。彼や彼女らの話コトバから受け取る彼らだけの感受性というシロモノ、私との「違い」を発見する、他者の発見が(功利的な言い方では)自分の中の源基という草木に水をやるように「利用」している面もなくはない。亡くなった後輩とはとりとめもない話ばかりだったが、彼は私にはそんな存在だった。だけに、彼の突然の死は腕をもがれたような痛覚が残る。「傷を負わない驚きなどあるだろうか」(ホルヘ・センプルン)…「図書新聞・06-6-3号)