●;保守派という人々(2)

●;前から気になっていたことがある。いわゆる「玉音放送」が、どのように当時の人々に受け取られたかである。

朕は帝国と共に、終始東亜の開放に協力せる諸盟邦に対し、遺憾の意を表せざるを得ず。帝国臣民に>して、戦陣に死し、職域に殉じ、非命にたおれたる者、及びその遺族に想いを致せば、五内(ごだい)為に裂く。かつ、戦傷を負い、災禍を蒙り、家業を失いたる者の厚生に至りては、朕の深く軫念>(しんねん)する所なり。

五内為に裂くの箇所は、安岡正篤が書き添えたと桶谷秀昭『昭和精神史』(文藝春秋)で知ったが、昭和天皇の指導者としての「反省」を込めたのかなとも読めた。この「玉音放送を聴いているシーンはテレビや映画などでなんどか「再生」を見せられていて、暑い夏の昼、か細くハイトーンの聞きづらい漢語的なコ「玉音」のコトバの意味さえわからず首うなだれて聴いている寡黙な「人々」の姿をインプットされているわけだが、「五代にわたって我が身が引き裂かれる想い」とはよく選ばれたなというコトバである。平たく言えば「ご先祖様に申し訳ない」であり、我が身が引き裂かれる「想い」とは昭和天皇の心情のようにも受け取られるが、そのコトバを当時の人々が理解したとは言い難い。

1970年に市ヶ谷で割腹した三島由紀夫は、そんな天皇を戦後に転生した「にせもの」とみなしていた。昭和天皇は、昭和20年で死ぬはずであり、それによっ「神」となるべきであった…柄谷行人『終焉をめぐって』(講談社学術文庫)。

私に昭和天皇に対する反発(というより不信があるとすれば、三島の見解と同じだ。それは2.26事件の主役の一人磯部浅一大尉の呪詛に心拍数を増やされた側面の記憶があるからである。2.26の青年将校らの「昭和維新」活動が(当時の人々の想い)をうまく組織したかは疑問だが磯部の遺書『獄中日記』では「明治維新」を「民主革命」と捉え、その民主主義のうえに立って明治国家の支配構造を超越するものとしてウルトラ国家主義を唱えている。これは北一輝の思想でもあり、彼らが唱えた「革命思想としての日本ファシズム」の根拠が明治維新であったことを物語っているが、昨今の「保守派を名乗る人(ら)」はせいぜい「左翼的な」大新聞やテレビを難ずるだけである。つまり、底が浅い笊である。
●;ただ、ナショナルな感情を持つに至った契機が日韓同時開催だった2002年のW杯サッカーで韓国チームの善戦に対する「引け目」であったらしいのは、興味深い。私はサッカーを面白いと感じたことは一度も「ない」けれど、彼らにとっては準決勝まで進んだ韓国チームが日本チームに比べて優越的な存在に映って韓国人たちも(そう言うのは正確ではないが)自国チームを誇らしげに語ったらしい。シャクの種はそこかららしい。例え韓国青年たちが勝ち誇ったそぶりや言動を行ったとしてもいいじゃん。自国チームを誇りに思うのは自然じゃん〜という見解だから、たかがサッカーで熱くなるなんて〜と、思ったりする。
●;「保守派と称する人々」は無限遡及的な天皇にあるいは国体にコミットするまでもなく、アジア主義者として遡り、振る舞うこともなく、ただ「反日的なもの」に好悪の感情を剥き出しにしているに過ぎない。この好悪感というシロモノが全面に押し出されて(むやみと感情的になり)「論理の不毛、好悪の優越」という「大衆社会」下の泡沫現象として「保守派と称する」人々が「いる」。