村上春樹氏と安原顕(3)

●;内田樹氏が「文藝春秋」村上春樹エッセイについて「プログ」で書いている。
氏が「引用」している箇所を再引用すると、

「僕は一度も会社勤めをしたことがないので、『中央公論社の社員』という肩書きがどれくらい大きなものなのか、それが与えてくれる安定した収入がどれくらい重要な意味を持つのか、実感としてよくわからない。それでも、会社の存在を都合良く利用しているのなら、そこまで悪し様に罵倒することもないんじゃないかと思った。会社という組織をうまく利用するのはもちろんかまわない。しかしそれなら、口にする言葉はやはり選ぶべきではないか?それなりの含羞というものはあってしかるべきではないか?」(村上春樹「ある編集者の生と死 安原顯氏のこと」『文藝春秋』、06/4月号)

私も一度か二度聞かされた(在籍中の)中央公論社を寝穢く罵倒していても会社を(なかなか)辞めなかった点について、だ。
●;春樹氏が使っている「含羞」というコトバに内田樹氏は(哲学者らしく)言及している。春樹氏の安原顕批判のカギはこにある(ような気がする)と書いている(ウーム)。

含羞は、その「バランスの悪さ」の一つの現れである。含羞は「バランスのよいバランスの悪さ」である。

なお、「バランスの悪さ」について内田樹氏は記している。

自分には才能があるという自惚れと、自分には才能がないのではないかという猜疑がせめぎ合っている場合。

「含羞」というコトバの内実に興味があったので、春樹氏の一文に触れた内田氏の解析?に敬する。含羞について記述があった山折哲雄氏の本を引っ張り出そうとしたが、見あたらない。