●;村上春樹氏と安原顕

●;村上春樹氏の文章を「初めて読んだ」と記したら、「意外!」とかの声がWEB上にあった。私のことを知っている人らしいが、そんな反応が出るのもこの作家が多く読まれている証左であろう。その方々には常識だろうが、私には「それがない」だけである。100円本も含めて本は(やたらに)買い込む。図書館から借りて積ん読しているが、時間がなくて読み切らずに返すことが多い。ただ、春樹氏の小説を「読む」必然性、キッカケ(偶然の出来事)がなかっただけだ。春樹氏となんらかの同質感を持たないままに時間を費やしてしまったのだ。
強いて言えば「イイ、イイ」と薦めた年下の男から『風の唄を聴け』(講談社)のタイトルを初耳した時「なんとまぁ、フォークソングっぽい。やだね」と感じたことである。五木寛之の『青年は荒野を目指す』を眼にした時も同様である。「恥ずかしい」感情が起こった。読んでもいないのに意地悪っぽく言えば「よう、ヌケヌケとそんなタイトル付けるねぇ」である。同質感で言えば村上龍の方が「ある」。情報的な文章の人だが言っていることに<なにとはなしの親しみ>がある。
●;「文藝春秋」のエッセイを読んだのは(少しは知っていた)安原顕氏のことがどう描かれたかに興味があったからである。私が僅かに持っていた<安原像>と春樹氏の<安原像>の違いを知りたかった。安原氏が「文壇志向的」であったと記されていたのは、唯一の発見であった。安原氏が中央公論社時代、吉本ばななTUGUMI』を担当者になってベストセラーになっていた頃「100万だか200万部だか売れても、大したボーナス貰っていないよ」みたいな愚痴を聞かされたことがある。中公という会社や、同僚の編集者をバカ呼ばわりしていたが、バカの部類の私はそれでも「なんかカネのことばっかし言ってらぁ」と思ったものだ。確かに編集者はキツイ商売。自分が見つけて育てた無名の役者作家がいつのまにか舞台で偉くなって行くのを唇を加えて見ている感情か。ま、わからんでもないが、ただ「それをあからさまに言うかよ」である。年収何億かの大作家になった「人」を羨むのは、ごく自然な過程。「それだけかよ」である。じゃ、なんで「編集者になったの?」と聞き返したかった。作家が一番偉くてその次に「編集者→制作者→販売(営業)」という「下」に突き進む(意識・無意識の)階層構造が(ほとんどの)出版社には「ある」けれども(フツーの会社にもお役所にも生まれる)、安原顕が志向したのは「エライ作家」になることだったというのは、寂しい話。「作品」だろうが。