●;村上春樹のエッセイ(文藝春秋)

●;村上春樹氏の文章を読むのは初めて。ある日の新聞が「文藝春秋」(06-3月号)で氏が編集者に渡した手書き原稿が古書店などで売り裁かれていることに抗議しているかのように伝えていた。とっさに「あっ、安原顕のことだな」と、思った。「文藝春秋」を読む習慣がないので、その記事をやり過ごしていたが、ある日、某社に出かけた後、昼飯を食うのを忘れていたことを思い出し「どこで喰おうかな」と歩きながら考えていたら馴染みの小さな図書館にぶつかった。ウィークディのまっ昼間、雑誌を眺めている(居眠りも)精気の失せたビジネスマン氏が多くいた(こっちも同様だが)閲覧室のソファで「文藝春秋」のその記事を探す。
●;村上春樹が人気作家になる前から、回りの(ちょっと)年下の男たちが「ハルキはいい、いい」と言うのを聞いていたが、食わず嫌いというか、さほどの小説好きではないので、ついぞ読むことがなかった。今回、初めて村上春樹氏の文章を読んだが、「筋が通っている人」という印象を持った。デビュー前からつき合いのあった編集者・安原顕氏についての論理がである。

<25年ばかりのあいだに良くも悪くも、橋の下で多くの様々な色合いの水が流れていた>

と、春樹氏は記している。<橋の下>、<様々な色合いの水>という暗喩の使い方に感心した。中央公論社に入る前の某出版社の編集者時代の安原氏を見知っていて、当時から意気軒昂な(自信たっぷりの)寝穢く罵る人ではあったが、出版小僧の私は彼が言っている作家の作品をろくに読んでもいなかったから「はぁ、そうなんですか」程度に反論もせずに聞いていただけだった。だから、春樹氏が描写している安原顕氏の「自分以外はバカ」といった態度言動には、頷けるものがある。青年期に必ずある一種の「オンリーワン感覚」であろうが、安原氏の場合は、死ぬまでずっと続いていたところに特異さある。それは、自ら「スーパーエディター」と名乗る気恥ずかしいセンス。子供の乱暴ぶりのような<過剰さ>を、後世代の編集者たちは「おもしろい存在」ともち挙げ(今は見向きされない)「書評本」のいくつかが量産された。哀れである。

<人の死はほかの何かの生命を道連れに携えていくものだろうか>

エッセイの締めくくりに村上春樹氏は、こんなコトバを置いている。「ほかの何かの生命」とは何か。春樹氏と安原氏の「(ひとときの)大事な(代え難い)交歓」を指しているように思えた。