団塊、二人の死…(3)

●;「私ら‘団塊世代’ですぅ〜」みたいな言辞を吐く連中は、身近には一人もいなかった。そう名乗ること自体がダサイ。気恥ずかしい。「ようそんなこと言えるな」という感情である。若い時、たまさか、飲み屋などで「戦争へ行った我々に比べれば、お前ら根性がないな」とかいう自称・戦中派のオヤジに喧嘩を売ったことがある。「手前ら、ホントに戦争へ行ったのかよ。行きもせずに行った連中の笠を着てるだけじゃねぇの」と。ホントに戦った者は、黙して語らない。もう少し内省的になっているはずだ。
●;団塊世代の親たちは某かの期待をこめ、なけなしのカネを捻り出し大学行きを認めた。親たちもまた貧乏からの脱却には、高度成長期の波に乗るしかないと考えていた。彼らの大学進学率が高くなったのは、高度成長期にさしかかっていた親たちの「投資」の結果である。中卒も高卒も大半であったのに、彼ら(大卒)団塊世代が「団塊」を代表するかのごときコトバは、嘘くさい。「世代」的な塊の特質といっても、高度成長期に必要とされる兵として「採用される塊」であっただけである。むろん、サブカルチャーの洗礼を受けたとか、その世代だけの感受性は普遍的に流れてはいるけれども。その職場で何を創ったかが、問われている。
●;《世界を獲得するために》というヒロイックなコトバをベースに闘った60年安保世代にコンプレックスを抱いていた「安後世代」(団塊前世代)は、大衆的(政治)学生運動の低迷期を経て「三派全学連」時代を形成する。67~68年の‘暴力学生’‘過激派’というレッテルが社会化されたのは、この頃である。ゲバ棒片手に覆面とヘルメット、人々は彼らの異形におののいたが、世界的なベトナム反戦運動の影響をもろに受けていたことは、なかなか、理解されなかった。大学を出たって「ろくな世界」へ行けるもんじゃないと思ってた連中である。ただ、大概の学生は、ネクタイを締めて「公務員」や「有名企業」の門をくぐった。
「三派」学生は、マルクスエンゲルスを少しは囓じってはいたものの、まともに読んでいた者は少なく、その外縁に党派的な束縛を離れてよりフリーな組織ならざる組織の「無党派層」や「ノンセクト・ラジカル」が並び、その回りに「ノンポリ」たちがいた。党派は気ままな彼らに乗り越えられていく。「党派的なもの」が漂わせるキツイ禁欲的な秘儀の匂いよりも、大学の重苦しさ=不自由感よりも、何かカラッと<明るく><新しい>世界の扉が開くのではないかとの期待があった。まずは「旧い大学の制度」が標的になった。大学生たちの<中心>は、全共闘(的なもの)が座った。
●;「H」も「M」もデモの隊列に一度か二度加わったことがある程度だ(二人から別々に聞いたことがある)。そんな時でも「女のことばかり考えていた」…というセリフの方に人生の真実味があり、人間的である。警官隊に突っ込んで行った時は、よーなんて武勇談よりも「怖くて怖くてしょうがなかった」と言う方が「人間の深淵」を覗き込んでいる。