団塊、二人の死…(2)

●;3月2日、初めての「人」と会うことがあり、相手と波長を合わせるためにコトバを紡ぎだそうともどかしくている時に、「M」の友人からの電話で「その死」を知らされる。
「エッ。オイオイ、死んじまったのかよ」と、絶句する。客人との会話は弾まないで、シドロモドロになる。
●;最後のトライともいうべき手術のために、その病では日本一だかの病院に入ると「M」から聞いていた。「手術は、結構、リスキーなんだ」とも口にしていた。ただ、1月中旬に入院する予定を彼の都合で延期を申し出たら「行列の出来る病院」らしく、後列に回されたとも聞かされていたが、「ま、いいんじゃないの」と気休めを言って置いた。「延期の申し出」は、体調ではなく、彼が「商品企画」を創りあげる「打合せ約束」を作ってしまったようだった。働く気があるのはいいことだ、とも思っていたが、まるで、生き急ぐかのように逝ってしまった。それは彼がよく口にした「団塊世代の仕事作り(のための)レクチャー企画」であった。大学時代の同世代の連中と会っては、彼らサラリーマンのダメさ加減を嗤い、一緒に企画を進める連中、研修の先輩なんかと(取材的に)精力的に会っていたようだ。2月初旬、私と会う約束をしていたが「体調悪く、キャンセルにしてくれ」との携帯メールが来て「いいよ」と返信したのが最後になる。
●;「M」は《団塊世代の特性》をしきりに語った。団塊というコトバに馴染まない私は、彼がその「特性」を剥き出しに語ることがよく理解できなかった。彼は「社蓄」(佐高信の造語)というコトバがこの世代の置かれた位置を表していると、よく語った。佐高の美しくないコトバが情況的な言語とは、まるで思えなかったから、
「単に、生まれた時に人が多かっただけじゃん」
「大量採用の高度成長期だから競争が最初からあっただけ」
「大学卒自体が珍しくもなかった時代のフツーの連中じゃん」
などと、彼のこだわり方の過剰さを否定してはからかった。
社会運動として「在った」《全共闘的なもの》の果たせなかったことは認めるものの、何百万かの団塊自体が何もしえていなかったし、マーケット対象以外に格別の意味がない…というのが自説だから、論争?にもなった。こんな時に「M」は不毛な「世代論」で逃げた。ただ、「俺たちは<故郷>を捨ててきた世代だ」との言には真実味が込められていた。地方都市から東京へ出てきた彼には、「戻りたい故郷」は意識の上では無くなっていた。