●;「わいがや」(1)

●;所属する団体の会議室で「わいがや」という催しを続けている。2年以上続けているが、先行したそれを「わいがや;①」とし、そこから生まれた長男が「①」で「③」が長女と勝手に言っている。ま、《勝手な放談会》であり、参加者のある人に言わせれば「商品開発の《ブレーン・ストーミング》」かもしれない。通俗的な言い方では(つまり、イヤなコトバだが)《異業種交流会》とも言えなくはないが、私には《新しいコトバの産出の場》なのだが、どう言われようと<面白い場>にしたいだけだ。<場>というのが一番似つかわしい。
言い出しっぺは、私と仲間二人で、見識ある先輩2氏に声をかけた。「プロジェクトは3人が集まればやれる!」というのが経験的にあって(昔)けっこう厳しい冬の岩登りでも3人がベストというのをしたたかに味わった。リーダーと根底からしっかりと支える奴と剽軽な道化がいれば事はうまく行く。パーティには絶対に笛吹男が必要だ。嗤いがである。「笑い」は組織の真面目さ、一瞬の跳ねるコトバやパフォーマンスが硬直して「既成物」になってしまった組織を吹き飛ばす。運動化というやつだ。
仲間の一人はさっさと辞めてしまい、もう一人は長い患いの身に。先輩2氏も続ける気が失せたようだ。彼ら歯、私なぞより遙かなインテリ。その「知」を参加者に啓蒙したくてたまらないらしい。哀れなヤツじゃ。啓蒙家になることで自足してしまう。実は、彼ら自身が「面白さ」を創り出せなくなったのである。恐るべし、啓蒙家の陥穽!
●;「①」は‘マーケット頭をよくする’のがコンセプトだと称していろんな業種の老若男女(女性の参加は少ないが)を誘い込んでいる。夜遅く、仕事している時にドアを開ける飛び込みの金融関係営業マンも面白そうな男だったら「いらっしゃいよ」と言ったりする。「ぜひ、参加させて下さい」と、その場で彼は言うものの来たことはない。
彼は「名刺」が欲しかっただけ。その一片の「名刺」が新規開拓営業の「証」として上司らに報告されるモノになる。金融会社の顧客リストになろうが私は別に構わない。自分がリスクを負わないバクチには手を出さないからだ。後日、名前も忘れたその営業マン氏が「電話営業」をかけて来る。どこぞのパターンである。やれ「金が上がっている」とかとかの下手な切迫演技が拡げられる。忙しい時は「会議中だ」と断るが、空いた時間にかかって来た時には恫喝する。「キミには『わいがや』を誘ったけれど、それ以上の『約束』や『関心』を示したかい?」「していないのに、同じトークで電話を掛けて来るのが、おタクの営業方針ならば、それは社長の方針でしょ。社長を電話口に出せ!」いや、それはなんとか〜と電話の奥で困った顔になる。「社長に直談判するしかかない。今から行くよ。受付で社長を呼び出すから、いいよな」と。まるでヤクザさんのような口の利き方をしてしまうのだが、案外、本気だ。一戦交えたくなるのだ。そんな金融会社の社長に戦闘的になってしまう。もちろん、業界が違うから会ってみても何の足しにもならないが、喧嘩のしぐあいの一問一答が面白ければ、一冊の「オモシロ本」に仕立てたくなる。転んでもタタでは〜の気分である。これを私は「営業(的)ナンパ」と称しているが、<面白いもの>と相まみえることなくして、修羅場の日常を超えてやっていく意味がない。