●;『東京の〈地霊〉』(1)

●;昼飯を共にした友人に清水谷公園のことを聞く。彼の勤務先からほど近いところに公園はある。「清水谷で結集したんだっけね」。どうしてそんなこと聞くんだい、といったけげんな顔つきを見せて「あぁ」と彼が答える。「アクセスがよかったからかな」と、私がおもねるようにたたみかける。友人はほんの一時、学生運動のゲバルト部隊長だった。だが、いつのまにか降りた。その辞め方を語ったことはなかったが、その後、金もなくやることもなく暮らしていた頃に無気力青年のように見えた頃、彼とは波長が合った。
●;麹町の紀尾井坂から赤坂・弁慶橋に降りる一本道、赤坂プリンスホテルホテルニューオータニ新館に挟まれたT字路のどんづまりに、小さく押し潰されそうになったところに清水谷公園である。デモ隊の結集地点として(一部では)知られていた。
野音(ヤオン)に近かったしね。アメ大も通りすがりだったし」
日比谷野外音楽堂を「野音」(ヤオン)といい、溜池のアメリカ大使館を「アメタイ」と呼ぶ。そんな風にして仲間内だけで通用する符丁や隠語を使うことを得意がる。意識的に敷居を造ったりする。自分たちがなにか特別な存在であるかのように思う時がある。そんなことを山岳会で経験していたが、これみよがしに「山用語」を使い、先輩たちから受け継いでいるコトバを駆使した。例えば、女をメッチェンといい排泄するのを「雉打ち」と言ったり。その気負った物言いに共通するのは、<普通の人々>に対する奇妙な優越感である。「こんなにもしんどいことをやっているのに、理解してもらえそうにもないなど「愚昧な大衆」に甘えているくせに屈折して優越感を持つ。今から思うと「バカみたい」である。
●;アメリカ大使館のわずか近くを通るだけのデモ隊は、日本的な建物ではないが、かといってアメリカ的でもない大使館という建物に、ものすごい権力が潜んでいることに恐怖を抱きながら、反比例して大使館をいともたやすく記号化し、やや侮蔑的に「アメタイ」と呼んでいた。そこにはデモ隊の気分としての軽さがある。その軽さは本当の怖さに触れたくないのでみんなで軽々しく言い合ったところがある。
清水谷から赤坂見附までまっすぐの一本道は、デモの隊列を封鎖する側にとっては都合がよかったのかもしれない。脇に入る路地はなく、逃げ道はない。明治十二年、大久保利通を暗殺したテロリストたちも馬車の逃げ道がないことを知っていたのだろう。
清水谷公園の顛末を知ったのは、鈴木博之『東京の〈地霊〉』(文藝春秋)である。大久保利通公の暗殺された場所近くの小公園に哀悼碑が建てられたのではなく、一種の霊廟であり、怨霊の鎮魂のための哀悼碑が置かれるべき場所として清水谷公園が作られたという。日本人には怨霊に対する怖れがある。言いあてた本を読んだ記憶がある。