●;『創造力の掟』という本(4)

●;角田健司『創造力の掟』について連続的に記しているが、それを読んだ元同僚のミヤザキくんがいぶかしんだ。<異様な熱意>を醒まそうと(?)いつもの「どうしたの?」と軽やかな口調で。「まぁね」とコトバを濁したが「けっこういろいろあるんだよ」(胸の内で)と。彼もまたコンセプチュアルな解釈、掴みをする思考の持ち主だが、考えの枯渇を感受したらこの本を批評的に読めよと言いたかった。批評的とは「肉を切らして骨を斬る」ではないけれど、影響を受けつつ違うコトバを生み出すことだ。自らそのコトバを獲得した時には、それは口移しの受け売りではなくなる。著者のコトバの祖述者ではなくなる。そう。彼もまた「創造力の徒」になっているはずだ。この本は10年前の本だが、その「旧いテクスト」を「新しく読む」ことだ。「新しく読む」とは「読み直す」ことであり、新しいコトバを自ら樹立することである。オーバーに言えば「原」テキスト(私は編集道には必読本と思っているが)たる『創造力の掟』を恣意的に使い、異和を取り出しては壊す。そして信ずるに値する「立っているコトバ」かどうかを確かめる。
●;角田健司氏がこの本を書き出している頃、「章立て」を見せて貰ったことがある。企画意図を執拗に喋ってくれたが、正直なところよく伝わらなかった。「編集者生活の中間総括をしたい」というモチーフは分かるものの、「創造」ということに拘ることが、だ。
本が出来、タイトルを聴かされた時「エッ?」と聞き返した。語感からは「想像力〜」を想起させられたからだ。「そーぞーりょく」と言い出されて「(クリエーションの)創造」を思い起こす人は少ない。それだけ「想像」は日常的に使われており、「創造」はその逆でふだん口語としては使われない。届けたい(知らない)読者に伝えようとする時、タイトルの強度の一つであるコトバの響き、その語感が与える「商品としての喚起力」について、この本では触れていない。なにも「ネーミングの掟」なる章が不在であることに不満なのではない。編集(者)行為が「○○プロデューサー」「××プロデューサー」を生むのであれば、彼(ら)が「商品力の乱反射」=商品の輝き、「喚起力」という極めて不確かな部分(「あっ!いいすねぇ。これ」と思わず叫んでしまうもの)について、明晰なコトバを読みたかった。そんなないものねだりがある。