●;『創造力の掟』という本(2)

●;角田健司氏の『創造力の掟』は「(編集)勝ち組」の芸談本的要素は全くない。書店には「各業界勝ち組」の芸を受け止めて益しよう(=いいとこどり)とする人相手の「感動(またはショック強要)本」が居並ぶけれども、大概は「話題(スキャンダル)情報」か「流行(=ファッション)情報」で終わり、「定番(=スタンダード)情報」でも「伝統(=オーソドックス)情報」にもならないのが多い(…この情報分類はこの本から)。
著者は編集者概念を業界外部へ拡げようする。「○○プロデューサー」「××プロデュサー」の排出する可能性をアジって、(広義の)編集者とは「創造」(=クリエーション、新しい価値)のエージェントと規定している。若い時(ヒットメーカーとか部数を伸ばしたとかの歴戦の勇士)‘出来る編集者’にミーハー的に憧れ、会ったりした経験を持つが、彼らの「仕える神」は、その実、極めて制度内的であった(と、今だからこそ言える)。
この本は(オーバーに言えば)読み手に<考えること>を強いる。挑発を止めない。著者の作りだした概念を理解しつつ(それもなかなか苦労するが)そこから読み手としての<私>の思考(能力)が引き出される。そして、いつしか「自己意識の拡大」という快感に繋がる、そんな本だ。
●;名越康文氏の発言を受けて『創造力の掟]』では<視覚的なこと>についてどんな記述をしているかを確かめくなった。
「マルチメディア」について彼はこう記している。
>>そこに込められた情報系が、人間の身体感覚/身体サイズにとってあまりに複雑化/巨大化し すぎたとき、その危険が俄に露呈する。終了するまでに膨大な時間を要し、しかもその操作に選 択/判断を繰り返し要求するソフトの場合、その情報の全体像を見極めることが極めて難しくな る。依存性の麻薬と化してしまう危険を、充分にはらんでいるということだ。<<
身体サイズよりも「複雑化/巨大化」しているが故に危険という指摘は、世の識者とそう変わらない。全体像を掴むことが衰退し、他者への想像力が稀薄になっていることもだ。
この部分は、ブルース・リーの映画を思い出す。映画館のドアを思い切り蹴飛ばして行く者が多かったという話を笑ったが、映像(情報)が身体生理に影響を与えることを直にその映画を見た時には、中国人(=香港スター)の身体イメージを超えるブルース・リーの肉体を感受しながら、なんらかの卑小感〜にひしゃげていた当方がドアを蹴飛ばしはしないまでも<全能感のようなもの>の拡張を感じさせたものだ。
>>マルチメディアは創造力を拡張する。しかし、同時に、想像力が発動する機会を奪ってしまうという、二律背反が装置化している。<<、ともで記している。マルチメディアをデジタルと言い換えてもいい。その「二律背反の装置化」の中にいる私(ら)は、世界を広くも狭くも感じとれる社会のまっただ中に「いる」ことだけは確かなのだ。それをポスト・モダンと言おうが、ポスト産業資本主義と言おうが。