●;記憶について(2)

●;「わいがや②」で知り合った‘文筆業’の人、前日の「瞬間〜」記事を読んで短いメモ書きを送ってくれる。
…「記憶の再構成」が彼の長い仕事であろうか。そして「エピソード」が尽きた時、彼は「どうする?」と記したところに着目してだ。

《生意気ですが『「ナワクン」さんの「エピソード」は尽きないだろうな…尽きるとしたら“根気”みたいなもので、でもそれが尽きても“代替の何か”が自然と湧き出るだろうな…』と願望に似た感想を抱きました》

と、ある。
「エピソードは尽きないだろうな」
(うん、生きようとする欲がある限りな)
「‘根気’みたいなものが(尽きても)‘代替の何か’が自然と湧き出る」
(早トチリになるが)「エピソード」を再構成する力が尽きることもある。止まった状態、思考停止になる。それでも「生きる」とは、己にしがみつくこと、我執というものだろう(か)。自分というものにまとわりつくその欲望すらを払いのけてしまう「もう一人の自分」が現れることもある。「代替の何か」とは、他者に対する無関心(受入の拒否)の後、自死を選ぶ前、多重な人格になった彼が選ぶものとは、<超越的なもの>、<常に恐ろしいもの>、<極めがたいもの>に惹かれて生きる…ということを‘文筆業’氏は言っているのだろうか。
●;また、氏は「さつき」さんがどこかでやった講演を聴いて涙した人の「プログ」を見つけてくれた。それを読むと、その人は彼女の父親(木村素衛・教育哲学者、1946没)が出した本をオークションで得たという。