●;批評的なメディアから(3)

●;内田樹氏の「プログ」から、毎日新聞9.12日号に寄稿したもの。

自己否定の契機をまったく含まないままに「自分とそっくりの隣人」を否定して溜飲を下げるというこの倒錯を私は「特異な病像」と呼んだのである。

●;今回の選挙に関して内田樹氏が取り出したキーワードは「特異な病像」である。「自己否定の契機を持たない他者を否定する倒錯」が起きている、と。
「自分とそっくりの隣人を否定する」で、思い起こしたのは、関西だかの住宅街で隣人相手にが鳴っている「お騒がせオバサンの事件」。テレビは、そのオバサンの形相を繰り返し放映していた。「困った人が多いですね」と否定の苦笑いを浮かべるアナウンサーという図式。さらに不愉快になったのは、お笑い芸人がそのオバサンのパロディを演じていたこと。「変わった人」をあざ笑う番組プロデューサー〜ディレクター、笑う芸人らと、視聴者たちに<トモダチの輪>が出来上がっていた。イヤだねぇ。

「弱者を守れ」という政治的言説はいままったくインパクトを失っている。その声を「既得権益」を手放そうとしない「抵抗勢力」の悲鳴として解釈せよと教えたのが小泉構造改革のもたらした知られざる心理的実績である。(略)「弱者」という看板さえ掲げればドアが開くという状況に対する倦厭感があらゆるエリアで浸透しつつあることを意味している。(略)その「弱者の瀰漫」に当の「弱者」たち自身がうんざりし始めている。当然のことながら、「弱者が瀰漫する」ということは「社会的リソースの権利請求者がふえる」ということであり、それは「私の取り分」が減ることを意味するからである。(略)
「弱者は醜い」という小泉首相の「勝者の美意識」はこの大衆的な倦厭感を先取りして劇的な成功を収めた。こうるさく権利請求する「負け組」どもを、非難の声も異議申し立てのクレームも告げられないほど徹底した「ボロ負け組」に叩き込むことに国民の大多数が同意したのである日本人は鏡に映る自分の顔にむけてつばを吐きかけた。