●;批評的なメディアから(2)

●;「研幾堂の日記」9月8日の記事で、世川行介著『読書と教育郵政 何が問われたのか』(現代書館)が取り上げられている。この記事(いつものように長いのだが)を読んだ時にちょっとビックリ。私(ら)が床屋談義風にエラソーにわかったような顔してクダクダと喋っている通念が壊されかかる。とたんにお節介男に変じて、出版元の知り合いに「このブログを読めよ」と連絡する。後、著者の世川氏も感心したと伝えられる。

特定郵便局が、マイナス評価の意味合いを込めて、「巨大な」というイメージで描かれる集票団体として、その存在力を確立するのは、田中角栄によってである。正しく言えば、この傑出した戦後政治家が、郵政官僚と、それに取り込まれていった全逓組合員とによって、追い詰められていた特定郵便局を、救い出したことが、彼らの田中角栄への恩義となり、この両者の関係が、後々の展開を経て、田中派の隆盛と、特定郵便局 OB との間で、より政治的勢力を発揮するものになっていったのである。つまり、ここからすれば、特定郵便局を潰そうとするコイズミ総裁の行動は、田中派への憎悪に突き動かされているものであると言える。》

●;コイズミが旧田中派(=橋本派)と中曽根派(=亀井派)潰しに走ったのは、(もはや)誰でもが知っている。それがコイズミの個人史(怨念史?)みたいな話に転化して「初一念を貫き通したから立派な男」とか、「筋が通っている」など「昂然たるリーダー像」が出来上がり、お後は手を変え品を変えてパターン認識の手法で、「自民党を変えた天才」みたいなストーリーが生まれて「あんな人がいなければ〜」と皆が言い始める。
実際、同世代何人かが集った飲み会でも、岡田・民主党の下手さかげんをあげつらい、ズブズブのコイズミ賛美になる。ちょっとイヤな雰囲気(ま、しばらくは、どこでもかしこでもこんな話が展開されるのだろう)。
特定郵便局の存在が諸悪の権化(でもないか)のように取り上げられていた時、政治・政局シロウトの私でも郵政官僚(=現・総務省)らの抵抗が顕在化しないのは「なんで?」と思っていた。
研幾堂氏によれば、この本には、
「郵政官僚が、郵便事業→通信電波事業に置き換えていく様子が描き出されている」そうだ。
彼らが郵便事業放棄に抵抗しないのは、これまで得られた収益が減少するのが判って、その代わりの通信電波事業(テレビ、ラジオ、携帯電話〜、ネットに繋がるコンテンツ業界)が彼らのメイン領土に)からの利益が増大している、といったことが記してあるという。ヘェー、フーン。