●;権力的なもの…批評的なプログ

●;私が拝見した限り(他にも多々あるだろうが)今回の「コイズミ選挙」について<批評的>な「プログ」は、「toxandoriaの日記」であり、もう一つは「研幾堂の日記」。前者は、今回の「政治過程」について分析的である。出典を明示し、自分の論拠をきちんと提出している態度が見事。HPや「めるまが」「プログ」などを実に広範囲に‘取材’している。「toxandoria」氏は、ジャーナリストとして一級。一方の「研幾堂」氏は考察的で感心する。思想家っぽい(哲学者を名乗っている)。二人とも、並の評論家を乗り超えている。
●;「toxandoriaの日記」最新号を引用する。以下の結論「エクリチュールの操作」を言及する時に、氏は膨大な出典を明示している。フェアである。

……いつの時代でも、自らのガバナンス正統(当)性を誇示する意志と身勝手な政権維持の意図(少しでも長く政権を維持して歴史に名を残すとともに甘い汁を吸い続けたいという、自己中心的な野望と欲望)のために、政治権力者たちは、このエクリチュールの操作(公文書、歴史資料などの廃棄・消去)の可能性に目を凝らしているのです。そこでは、「現実の出来事と事実の消去」だけでなく、政治権力者による積極的な「偽証の創作」(証拠のデッチあげ/イラク戦争を始める口実とされた“大量破壊兵器存在の問題”など、事例の枚挙には困らない)さえ行われます。
しかし、このような政治権力者による意図的な「エクリチュールの操作」は、主権在民現代社会に生きる我われ一般国民の人間としての尊厳に対する冒涜であり、最も悪質な犯罪行為だと断言できます。このような訳で、アーカイブの問題(*)は実に致命的ともいえる一般国(市民)への人件侵害に直結する問題でもあるのです。

●;「研幾堂」氏は、ひたすら考えよう〜としている。オーバーに言うと「思考機械」である。書物から考えるのではなく、感情からコトバを引き出すのではなく、「おやっ?」と怪訝に感ずる、その事象を自分の頭で解こうとする。文章は蛇行するように長いが、読み応えがある。その一部を引用する。

政治という社会の最上部で、我々が、自然に、そして正当に有する期待と信頼の故にこそ生じて来る、ノイローゼに似た自己煩悶、つまり、信頼すべきものではないことが、一方では確実に見せられているのに、他方では、あたかも信頼出来るものであるかのように語られてしまっている為に、そのように見切ってよいのであろうか、と板挟みになって陥る、判断不能を経験させられているからには、それに先立って、社会の中間的各層では、既に、そのような体験に人々を突き落とすことが、確実に繰り返されていたのであろう。様々な意味で、弱者の立場にあった人々は、そのような日々を、もう長いこと過ごして来てしまったのであろう。心神耗弱者が、最終的な精神摩耗に陥る前に、しばしば、ある種の空元気のような、昂然とした態度を取ろうとするように、人々は、コイズミ的な昂然さに身を合わせることで、あたかも救われるような気持ちになってしまっている。だが、その空元気が、却って、精神の摩滅を促進するように、彼らは、一つの精神状態に移行していくであろう。それは、健常とは、まったく逆の状態に対して与えられるところの、あの名前を持った状態のことである。

「コイズミ的な昂然さに身を合わせることで、あたかも救われるような気持ちになってしまっている。だが、その空元気が、却って、精神の摩滅を促進するように、彼らは、一つの精神状態に移行していくであろう」という箇所、私が言いたい「都市住民の心性」を言い当てている。脱帽。