●;イヤな感じ…操作されること

●;テレビに映る「権力(者)たち」について感じたところを頭の中でまとめてみたいのだが。まずは、宮台真司の文章から。

権力は服従者の了解(選好と予期)に即して定義されます。服従者の了解の正しさは問われません。玩具の拳銃でも本物だと思い込めば権力を体験します。だから誰かへの権力を行使したい者にとって「シンボル操作による了解操縦」が重要です。この了解操縦を「広義の権力」と呼びます。権力闘争とは了解操縦の鬩ぎ合いです(宮台真司)。

●;「研幾堂の日記」というプログに頷けるものがあったので引用する。

そういう醜い顔の実例は、テレビジョンのブラウン管上の映像に、いくつも見ることが出来る。評論家やコメンテーター、あるいは人気の大学教授という人々の、五十前後以下の連中は、どれもそこそこに豊満な肉付きの表情で、しかも、おしなべて声がやや甲高い。そういう顔つきと声色は、寵児か驕児の徴と昔は相場が決まっていたのだが、今では、それが「真っ当さ」の証拠となってしまっている。それがどう「普通」なのかは、私の理解するところのものとは、まったく別の何かが当てはめられているようであるが、彼らの「気持ちよく」生きています、考えています、物事を見ています、という顔の背後には、無関心と思いやる想像力の欠落しか、私には見えて来ない。つまりは、昔通りの驕児の顔にしか見えないのである。その驕慢さの中身は、昔とは大分違っているのであろうが、幼稚さという点は、同一のものに違いはなかろう。

《おしなべて声が甲高い「五十前後の以下の連中》とは(私の想定では)猪瀬直樹、テりー伊藤、福岡某、勝谷某とかとかであろうか。