●;イヤな感じ…絶叫演説

●;郵政法案の賛否を問う小泉首相の記者会見模様をニュース番組で見た。繰り返し放映される首相の貌は「なみならぬ決意」の現れという風に解説されて「改革の意思を現している男」というパターン認識がなされている。先日のモーニング・ショーで日経新聞コラムニスト・田勢康広氏が「歴代総理であんな顔を見たことがない」などとその人格面を強く浮き彫りしていた。つまり「人となり」論である(8/16日経コラムでも同趣旨のことを書いていた)。田勢のそれは批評なき論評で「<政治>論評する記者」ではなく、番記者でしかない「政治<部>記者」の典型的な人物論。スキャンダルがあっても強いプロダクションに囲まれている芸能人にはろくな突っ込みをしない芸能レポーター並である。
同席していたテリー伊藤や小泉と親しい?猪瀬直樹も「フン、フン」と相づちを打っている。オポチュニストたちめ!。時の勢いある権力者に擦り寄るパフォーマンスでテレビ業界での政治生命を確保しているテリー伊藤や、「反権力的正義(漢)ポーズ」の猪瀬も田勢の発言に異を唱える訳ではない。批評が全くないズブズブの順応ぶりを見ると<イヤな感じ>が澱のように残る。和田アキ子が仕切る番組(例「アッコにおまかせ」(TBS系))で彼女に向かってヨイショする二流芸人を見た時のようにである。
●;今回の選挙で映りだしているのは自民党内の内ゲバである。その側面がテレビ等の大衆メディアでおもしろおかしく映し出される。選挙民は火の粉が自分の側に飛んでこない限り、内ゲバを劇場ドラマのような<面白さ>があると思っている。主役・悪役、脇役がそれ相応に登場し、それらしきヒーロー、お涙頂戴のヒロインが登場する芝居をタダで鑑賞できるというわけだ。
戦後保守党政治は、個々の地元利害代表議員らの談合政治体質(道路にしろ郵便〜にしろ、パチンコにしろ)と、政策政治型体質(=理念型)が(うまくかどうかは別として)融合していた。その「かたち」が壊れ掛かることで自民党民主党らも含めて)がどう変わるのか/変わらないのかを分析的に言ってもらいたい。

政治的内ゲバについて三上治が「めるまが」でこう言っている。

権力闘争はその当事者たちを外部に対して視野狭窄にする。だが、その当事者のエネルギーを異様に高める。内ゲバといってもいろいろあるが、その当事者の心理は異様になるのだ。外部の人にはおもしろい見世物になるし、その劇場的なところをゲームのように見物していればいいが、その権力闘争に僕らが関係するのは、その闘争に必然性があるかどうかである。

「当事者が異様な心理になる」という三上の指摘は、内ゲバ経験が言わしめているが、ちょっとした職場でも家庭でも小さな内ゲバ体験を持つ私(ら)が、自分たちの周辺で起こった<異様さの体験>とダブって見える。それが観客になりうる条件だ。ただ、その異様さが「許容の臨界点」を超えた時、潮が引くように私(ら)は渦中から後ずさりする。「範疇を超える異様さ」とは、極めて乱暴に不謹慎に言うのだが「テロル」もしくは「自死」である。「殺されたっていい」と小泉首相の言が伝わった時に、それは既に始まっている。民主党の岡田委員長(共産党社民党党首らも)
が当事者性を失っているのは、「死ぬ覚悟」のようなものを口にしていないからである。