宮武謹一さん逝く(5)

●;「旧制中学で海軍兵学校や陸士に行く奴ってどんな連中でしたか?」と聞いたことがある。宮武さんは明治43年生まれ(1910年)だから、中学時代は大正年間のはず。こんなことを聞いたのは当時の秀才たちが何をモデルに上の学校へ進んだかに興味があったからだ。
「成績のいい奴の順番に旧制高校に行くけど、その中でも兵学校に進んで行くのがいたな。陸士はその次の連中かな」といったような答えだった。この会話で何を拾おうとしたのかもぼやけているが、明治が終わった後の大正時代の<空気のようなもの>を理解したかったからだ。
●;大正期の軍隊が国民的な支持を得ていたとは言い難い。やっとの日露戦争に勝利はしたもののその分け前が少ないぞと日比谷騒擾事件を起こした民衆に代表されるように、国家は人々を食わせなくてはいけなくなった(いつの時代もそうだが)。平時では不必要な軍隊に対しては世は軍縮気分になる。そんな中で成績のいい連中で敢えて軍隊に飛び込む連中がどういう同時代の気分を持っていたのかを知りたかった(確としたものは得られなかったが)。
氏が旧制一高に入ったのは昭和初年頃か。柄谷行人編『近代日本の批評Ⅰ』(講談社文芸文庫・97年/原本は季刊『季刊思潮』・89年)では、「大正的なるもの」を切断する動きとして昭和初期の批評としてあるという仮説を検証している。福本和夫がその代表としている。
 

アメリカ」と「ロシア」という西欧からみれば周縁に過ぎない文明は、それまで西欧を中心に自己形成してきた「大正的」知識人にはないものであった。そこに、「深い精神性」がなかったからである。彼らは谷崎のようにさっそく映画に飛びついたりすることもできなかった。震災後の思想風景は、小林(秀雄)がいうように、薄っぺらで「故郷」がない。小林のいう「故郷」とはいわば「大正的なもの」である。しかし、この時期は西欧そのものが、ある伝統的な核心を喪失した時代であり、したがってアメリカとソ連という「新世界」、歴史的実験の国が輝きをもったのである。ロシアのアヴァンガルドやフォルマリスムと、アメリカの大衆文化は、西欧の「深い精神性」を斥け、テクノロジーの意味を認めるという意味で共通していた。

●;滾るような<若さ>はいつの時代も「新世界」に憧れる。鬱屈を晴らしてくれそうな<空間>の発見である。貪るようにその世界に触れようとする。マルクスボーイとモガ、モボの同時登場である。林芙美子の『放浪記』(1930年)にミルクホールに出入りするマントを引っさげた旧制高校生の描写があったような気がする。
「それまでの左翼運動が組織的であるよりも、アナーキスト的・個人主義的であった」と柄谷は言う。大正期の左翼運動が労働運動中心だったが(山川イズム)、第一次共産党弾圧の後にインテリ中心の運動(1918年創立の新人会)が盛り上がり、福本和夫が一時を牽引して、やがてコミンテルンから退けられる。宮武さんの左翼へ飛び込んで行ったのは、福本時代か福本以降かを聞いておくべきだった(福本以降のような気がする)。