●;宮武謹一さん逝く(3)

●;通夜には出かけたものの翌日の告別式はサボる。疲れて惰眠をむさぼっていたせいだ。三上治から聞いた話では50人ほどの人が集まり、代々木八幡斎場で骨になったそうだ。宮武さんの同世代人は黄泉の国の住人ばかりだから、親族を含めよほどの関係者か、氏を慕う人々であろう。こういう時もいい加減な私は自分の都合でエスケープしたことになる(ま、いいか)。
●;氏を「<昭和>のテキスト」として見ていた…のはホントだが「よく読んでいた」というのは嘘である。宮武さんが関わった歴史上の事実(史実)は<昭和史そのもの>である。大正期に中学生、昭和初年代の一高生、鬱屈を晴らしてくれる先が「ある」と思えた「新しい思想」。現実にはコミンテルンの日本支部日本共産党」の活動家となる。新しい人種の出現を怖れた権力側の大量弾圧(1928.3.15など)。獄中で大本教出口王仁三郎に会う(この時の王仁三郎との会話は面白い)。
京大助手?の口が無くなって満鉄調査部(上海)へ。関東軍の参謀らに「情勢分析」をする。満鉄の同僚・中西功(中国共産党員でもあり、劉少奇とも近かった)を通じてアグネス・スメドレーや尾崎秀実らと会う。ゾルゲ・尾崎グループとみなされるのを避けたのか、満鉄を離れ日本へ。京都で松竹社長の御曹司らの家庭教師を務める。戦後、中国研究所員。田中清玄が社長で専務の会社。「カネ作りはしたが、清玄がわしづかみにして政治に使ってしまう」と言っていた(たぶん土建会社であろう)。ここらあたりは断片的に聞いた。
●;「宮武謹一氏は一体なんだったのだろう」…この謎解きが私らの課題だよな、と三上治に言った。親しかった不肖の弟子?の三上がやる仕事だろう。鶴見俊輔氏ら思想の科学グループの仕事に『転向』(平凡社)がある。この大著はいろんな転向知識人の思考転換が追跡的に分析されているが、あの人々の中に分類されない「何か」が宮武氏には「ある」と確信する必要がある。鶴見さんが元気なうちに見て貰うつもりで書いた方がいいとそそのかした。私は<テキストとしての宮武氏>を読むことで、とりわけ昭和初年代〜10年代をしっかりと掴まえたい。