●;宮武謹一さん逝く (2)

●;「宮武謹一」という名前をグーグルで検索すると、一箇所だけ氏の名前が出てくる。(財)中国文化研究所のアーカイブスに1948年の13号だかに「香港密輸と華南経済」というタイトルが浮かんでいる。宮武氏の論文(?)らしい。ネット上の記録が人の全てでは(全く)ないけれども、この一箇所しかとどめるところがないのは氏の謦咳に触れることが出来た私らとしては淋しい気もする。もういっぽうで「名を遺そうとしなかった人だった」とも納得する。
●;私が「先生」と呼ぶ人が少ない。いつの頃か<学校的なもの>が嫌いになっていた。たまたま相性のよかった教師に巡り会わなかっただけなのだが、もう少し可愛がられる技術を覚えていたらよかったのかもしれない。すねる性分のなせる業が原因していて、<先生たち>が投げかける振る舞いや視線を好意として受け止められなかったのかもしれない。しかし、学校以外のところで何人かの師を得たのは決して不幸ではない。
●;宮武先生を知ったのは、三上治が誘ってくれた。「おもしろい人がいるんだよ」と言った。彼が「おもしろい」と評するのを相当に信用しているから会う気になった。それがキッカケである。三上はいつの頃か先生宅に上がり込んでいたようだった。いつのまにか家人のように<上がり込んでしまう>ところに三上治の特質がある。彼は拒否される人ではなく<迎え入れられる>人なのである。書斎の本を借りたり、宮武さんと議論していたようだ。三上の得意の時ではなく(かといって好日的なこの男に厳密な意味で失意の時があったとも思えないが)、何かを模索していた時期であるのは確かだ。通夜の時に、それは1973年頃だと言っていた。
宮武講一氏は1911年(明治44)生まれ。その人のお宅で読書会をやるから来ないかという三上の誘いであったが「今さら、読書会かよ」と声にならぬ声を出した。こういった勉強のスタイルにはどこか拒否感が残っている。あまり好きではない。昔の(旧制高校からの)寮生活、学生運動の「合宿」、会社の「研修」などなど。全てが議論に長けた、多弁な言葉多い他者性を欠いた直線的なリーダーが強要する洗礼式みたいなものにつき合わされるのはたまらん。勉強なんて独りでやればいいと思っていた(実に不遜だったが)。
●;しかし、テーマは「現状分析」だと聞かされ‘時勢の読み方’という風に受け取れ、のこのこと出かけた。バブル経済の予測はもちろんのこと、会社勤めでの事後処理もうまく出来ず、まごついていただけというのが真相だった。能力のなさだけが自他双方から突きつけられていた。自ら言葉が生み出せなく無聊をかこっていた時期だけに「時勢の読み方」には惹かれるものがあった。
テキストは恐慌論などのハードな経済書も混じっていた。経済(学)には極めて弱い。素養がない。『資本論』なんかも数ページ開いたきり。なんて難しいんだとさっさと諦めた口だ。マルクス経済学的タームも近経もレトリックとして使ったことがあるが、実は記号的にしかわかっていない。定義というものを疎んじているところがあるからだ。しかし、少しひるんだが、先生宅が自転車で行ける距離だったこともあり、出かけるようになった。
読書会風の研究会には、三上の学生運動時代の先輩や後輩が何人か出入りしていた。彼らなりの時務情勢論を激しく吐くといつのまにか姿を見せなくなった。三上とその後輩のF君、(当時)東大の院生だった新田滋らが書斎を訪れる数少ない人々になった。この研究会の成果は「分析」という不定期刊のワープロ版小冊子にまとめられた。先生のほかは三上治新田滋らが執筆の中心で私は一つも記していない。「分析」発行後は、円高自民党の政権落ち、阪神大震災オウム事件など時事的なテーマを引っ提げて先生の見解を引き出そうとする放談会になった。
●;先生のテーマは「情勢分析」である。「世界経済の動向から現在的な世界史を読む」というのが年来の仕事である。今風に言えばアナリストということになるのだろうが、先生の「情勢分析」に金を払う会社があったようだ。先生の言葉の端々に「飯の種」であった大きな会社やどこで聞いたような人が見え隠れしていた。同時に「分析」することが世の中への緊張、つまり張り合いでもあったようだ。先生の書斎には、三上以前にも多くの左翼的な学者や旧い活動家が出入りしたようだが、彼らに「教授」したかったのは「現状分析」であったが、彼らが「享受」したものはなんだったのか。一高中退以来、満鉄調査部(上海)勤務も、戦後の田中清玄と組んだ「会社経営」も身過ぎ世過ぎのためであったけれど、たえず「世界史的な情勢分析」を怠ったことはない、と先生は言う。獄中で「転向」、経済社会の動きから政治世界を観るという手法が絶対的であるという両方の意味である。
●;「学習会」の初めの頃、先生の話を黙って聞いていた。書斎に納められた本の背表紙を眺める程度であった。さすが、元一高生、「哲・史・文」の人であるが、文学書はひとかけらもない。新人会では先輩になる中野重治の本などもなかった。哲学書や宗教書、マルエン全集や経済学書が天井まで届く書棚にのしかかるように詰まっていた。哲学と歴史が宮武先生の脳髄のようであった。肝心の経済(学)的な解釈では質問すら出来なかったが、「師」と勝手に決め込んだのは、雑談の時間である。
宮武先生は私にとっていかなる師か。人生の手ほどきを教えてくれたからではない。先生ご自身が「生きた昭和史」だったからである。本や映像などで知っている昭和史の場面で先生はその時どうしていたのか。何を感受したのかを聞いた。イメージでしか掴まえていなかった〈昭和〉の具体をたしかめたかった。いわば先生は実在のテクストであった。