●;近郊都市の荒れ(3)

●;「村の風景が変わった」と言い立てても村の不在をノスタルジックに嘆いても「別に…」と特別な感情を持って頷く人は少ないだろう。「近代化」は、時間差はあるものの日本の隅々でことごとく受け入れられた。蒸気機関車は駕籠を、自動車は人力車から幹線鉄道を衰退させ、テレビは紙芝居を淘汰・放逐。その例の枚挙に暇がない。近年の象徴は日本の島々まで行き渡った「自販機」だろう。どこへ行っても「ヘイ、コカコーラ!」となった。明治の開化の季節に江戸文化の某かが失われたと言ったとしても(永井荷風もその一人だが)、当時のフツーの人々は「何、言ってんだか」と言っただろう。(近代化された)資本主義市場の最大の機能は淘汰にある。都市もまた同じだ。
●;今、とりわけ東京は「過防備都市」(五十嵐太郎の著書のタイトル)になっている。歌舞伎町を浄化しようとする慎太郎都知事にとって「セキュリティ都市」が当たり前になっている。30何年前に湘南地方のお坊ちゃんたちの風俗を肯定して世の規範を嘲笑した慎太郎青年は、長じてお膝元の歌舞伎町の風俗を侮蔑して、<猥雑なもの>を吐き出されたゲロのように忌み嫌っている。
かくて「セキュリティ都市」の中のちょっとした家を訪問するセールスマンはブザー越しに断られて職場を離れる。家人は<外部の人>と触れようとしない。彼らは外へ出てこない。だから、電話やメールなどの通信技術が次のアタック武器になる。手が込んだ「オレオレ詐欺」などもその手だ。
東京の細民街(典型的なのは隅田川沿いのホームレス諸君のブルーテント)も、そこそこのマンションや建売住宅の「要塞化」が進んでやたらと堅固になっている。外来者を怖れる風潮のみ流行る。ちょっとした事件(それは必ず「異常な」と呼ばれる)は、同じ映像が何度もフラッシュバックされて言説は膨張し「不安の激化作用」となる。
●;近郊都市の(とりわけ境界の)「荒れ」は、管理の不行き届きというようなことでは全くなく(そう言ってしまったら)「防備せよ!」という論調と同じになる。そうではない。近郊都市の向こう側、都市の<中心>の希薄化こそが「荒れ」を引き寄せている。<中心>とは何か。そこが問題だ。