●;ユウジンたちの言葉から(1)

●;大学教授になった年下のユウジンと会う。神保町の居酒屋でもうひとりのユウジンと長時間過ごす。久しぶりに会う教授成り立て氏は饒舌。1コマか2コマを教えている大学講師は周囲にいないことはないけれど、れっきとした(かどうかは知らないが)教授になったのは彼が初めて。70歳が定年とかの話にうらやむ気持ちが興るのを避けられないが、彼のその方面の<努力>に比べれば、当方は(今も)小さな世界を永く彷徨っていただけと解釈する。就任した際の大学当局の最初の説明が「セクハラに警戒しろ」とあったのには笑ってしまった。大学は特殊な世界でもなんでもなく、グローバル化、すなわち産業戦士の育成を望む企業の要請と少子化の前に、否応なく大学は実学化を押し進めている。旧来の大学は解体されており(「俺のような者を教授に迎えることは程度が低くなったとも彼は言うが)、実は相当前からなのだが「大学の凡庸化」は深化している。
●;彼が通う地方都市の<ゆるみ>について聞く。東京など首都圏と愛知以外の地方は、陥没しているという。その地方にとって<余計なもの>は潰される。近代化とはそういうものである。小高い丘は邪魔になり、埃かぶる鎮守の森も死に至る病が臭う病院も、死者を祀る墓地も必要なものだけれど…と忌み嫌われる。不必要にされる。かくて、ゆるんだ近郊都市は、都心の管理社会的な<視線の多さ>から外され、一斉にゆるみはじめているという。その<ゆるさ>の象徴的な出来事は、近郊都市と近郊都市の狭間、境界に生まれている奇っ怪でおかしな(単純な)犯罪である。とりわけ、撲殺したり首を絞めたりの瞬間的な暴力行使の果ての死体は、この境界近くの山林に埋められ、捨てられる。一見、<見えない場所>に放り込まれる。