●;ユウジンの言葉から(2)

●;ユウジンが語った中心の外側に位置する近郊都市の<荒れ>と<ゆるみ>について考えること多い。朝日新聞(05/06/16号)で成田龍一氏が「時間の奥行きや歴史の遠近感が失われた場所が、戦後60年で博覧会だけでなく日本の社会全体に広がった」と語っている。「戦後60年の透視図・第2部/イメージ空間」というシリーズ記事の中で。「異質だった博覧会的な時間感覚は、いつのまにか日常の風景になった」と、成田教授は言う。また「時間の平面化」とも。
戦後、用意された博覧会という空間(強い記憶にあるのは70年大阪万博)が「過去を忘れる場として機能した」とは、多田治琉球大教授。残念ながらお二人の教授の本も論文も読んでいないので「引用」だけだと短絡になってしまうので気が引けるが、空間の変容によって(も)歴史意識(つまり過去の身体感覚が)が喪失させられているところだろう。
●;遙か30年以上も前、故郷の年上の従兄弟たちが大阪万博にこぞって行った時のはしゃぎぶりを思い出す。豪華だった?旅行の帰途、わが家に寄った彼らが父親や母親たちと談笑していたのを横目で見ていたが、「新しい何かを見た!」という驚きの報告があったとは思えない。そんなに余裕がなかったせいもあるが、父母が万博には行こうともしなかったし、こちらもそうだった。未だに「昭和のお伊勢参り」とでもいうべき6000万人が移動したというその巨大数字が信じられないのだが、何を見ようとしたのか。「未来だって?」。なんという過去を忘れさせようとしたのか?