尼崎の電車事故報道(4)

●;それほど親しくもないので知人とは言い難いがせっせとメールを送ってくれる人がいる。この‘熱意’というしろものはなんだろうと思いつつ、失礼ながらそのメールはほとんど削除してしまうのだが、ある日のメールで《尼崎電車事故報道》に触れていた。その人の知り合いの在日?フランス人が朝日新聞に投稿した原稿のようであった。採用されたのかボツになったかは知らないが、異国の人らしく(日本の)風潮批判であるが「どうして(マスコミは)人々にコンセンサスを強制するのか」といった調子のところがあった。ま、よくあるマスコミ悪玉説である。「一億総懺悔」を促しているではないかという批判である。
「大量死-JR西日本の不手際」という文脈がどどっと形成され「坊主に憎けりゃ袈裟まで」の喩えのようにボーリングだの宴会だのゴルフやっていたのは「けしからん」と重箱の隅を穿り返す。《JR一家は蟄居しておれ》みたいなコンセンサスを強要されていると言う。
国賊というコトバは旧いが、日航機をハイジャックした赤軍派の頃はその家族を虐めたという記憶はないが、テルアビブの乱射事件の岡本公三被告の家族を晒すとか、連合赤軍を逮捕した時のマスコミ記者の怒号の十字砲火とか、ある日突然に「国賊扱い」をする変換は記憶に残っている。
●;1940年だったか、近衛首相がラジオ放送での「一億一心」というコトバがキッカケになり、人々が皆持っていた<ある種の不安>を組織化するキャッチフレーズに転化していったことを思い出した。官軍賊軍とか、保守革新、体制反体制とか二項対立的な「判りやすいコトバ」で現実をくくろうとするのは精神の怠惰であり、だるくてわかりにくい時代の気分と重なるフツーの人々のルサンチマンとかが重なると、言い出した人々を黙らせてしまう抑圧のコトバに移る。