●;尼崎の電車事故報道(1)

●;尼崎の(正しくはJR西日本福知山線鉄道事故はテレビで知った。にわか探偵になって事故原因を追及するモーニングショウのキャスターたち。その席に晴れがましくも(うれしそうに)呼ばれた「評論家たち」の言説が私(らの)にわか言説となり、床屋談義のエサになる。政治的な事件であれ、誰かのスキャンダルであれ、事件報道となるとけたたましく鼻持ちならない<正義女>に化ける安藤優子らはバッシングの対象となる人物の<象徴化>を急ぐ。その<彼>を発見すると一斉射撃の引き金を引く。ステレオタイプのいつもの図式が始まり、やがて事件は消費され「終わり」。
今のところ、何かと不手際が目立つJR西日本がバッシングの対象のようだ。生きていればものすごい追求を受けるはずの若い運転手は死んでしまった。生き残ってれば、彼の家族までもが記者と称する人々に向かって土下座させられるような生け贄の儀式があったかもしれない。
いかにもキャリア官僚然としたJR西日本の社長に刃は向けない。用心深く護衛官の官僚たちにガードされているからだ。喉元過ぎればなんとやら。事故の責任は、複合している。単純化して悪玉を作りたいテレビは、「責任の所在」のありかという複雑な追求はしない。かくて「一片の事故報告書」が出るまでの時間を「次の事件」を消費して忘れ去られる。
●;テレビ画面で一番イヤなシーンは、亡くなった人のイトコとかという若い男が、JR西日本の末端担当者を責め立てる場面であった。「うちらの身内が死んだことわかってんのか、おいお前」みたいな口調でなじる場面を延々と写していたところ。彼が言う身内の「痛み」や「思い」とかの感情を係官に強要したとしても、了解しえないということがわかっていない。あるのは、彼の鬱憤ばらしだけである。彼が演じていたのは、遺族の代弁者という役割だが、テレビ報道の勢いをバックにJR西日本の係官を虐めること。それが「家族の怒り」として絵になったというバカな判断。従軍慰安婦や戦争被害者の「声」を錦の御旗に「申し訳ございません」と言うしかない弱い現場担当者を問いつめる連中と同じ手つき。
それに比べ、母親を失ったことが判って乗ってきた車の運転手席で涙をぬぐってハンドルを激しく叩いていた息子さんの一瞬の映像の方が、「なじり男」の鬱憤代弁のくどくどした多弁よりも遙かに視聴者としての私(ら)をうちのめす。そう、どこに怒りをぶつけていいかわからぬ不条理を。
●;<<事故に関する報道から浮かび上がって来るのは、収益至上主義や競争至上主義かもしれません。ですが、それも主犯ではないように思います。事故の核心にあるのは、専門職への尊敬を失った社会という問題です>>と記しているのは、冷泉彰彦氏。 http://ryumurakami.jmm.co.jp/