●;抗争する人間

●;柄谷行人朝日新聞の書評(05/4/17号)で今村仁司の近著『抗争する人間』(講談社選書メチェ)について書いていた。本の存在を知らなかったせいもあるが、朝日新聞が「抗争」という表題で今の世情についてなんらかのシンボリックな意味をもたせているのかなと思った。新聞の見出しが強いる操作性というやつである。「視線の政治学」といったものを感じ取ったのは、最近の中国都市部の反日デモの報道を眼にしているからだ。今村の『精神の政治学』という本を買って板記憶もかすめている(何が書いてあったか忘れているが)。
●;最近、安酒場で見知った連中に反日デモについて意見を求められた。なんか盛り上がっていたらしい。「よせやい。床屋談義かよ」とは言わぬがイヤイヤと断った。明治の男たちのエートス日露戦争を戦うあたりまでで、戦後の戦利品の少なさを怒った民衆が日比谷公園で焼き討ち騒擾事件を行ったあたりから、日本はおかしくなったと語っていたのは、司馬遼太郎だったと思うが、平成の男どもは何を議論したがるのか。ナショナリズムに対してナショナリズムで対抗するというのは情けないぜ。「「国民国家」なんて複数の様々の要素がテンポラリーに形成されている淀みのようなもの」と内田樹が書いていたが(「文学界」05-5月号)、「万世一系」とか「愛国」とかで日本人とか中国人とかのアイデンティティを探し出すというのも旧いぜ。かの国での「抗争する人間」たちは、いかなる新しい秩序を形成しようとしているのか。それが見えない限りは賛成も反対もない。
●;柄谷行人の文体は、いつものようにパセティック。今村の近著を要約して言う。
《共同体や国家には根底に暴力がある。それらの秩序は、ある一人の人間を犠牲にする
 ことによって成り立っているからだ。…このような暴力の源泉には、他人の承認を求
 める人間の欲望がある。それは他人に優越しようとする社会的欲望であり、このため
 に相互的な競争が生じ、そこからは誰が一人を排除することによってしか安定した秩
 序が形成されないのである。》
●;経験した身近の組織で「一人の人間を犠牲にする」巧妙な動き(政治的といってもいい)に気がついたことがある。ある時は<彼>の異物性が難じられる。時には<彼>への嘲りを組織化しようとする。ま、せこいイジメである。<彼>の発言には原初的な革新性があることを見届けずに秩序の側から<彼>の言論を封殺しようとする。こういう時の封殺派のコトバはこうだ。「何を言っているんだかわからない。具体的でない」とかとか。要するに彼らはバカなのである。