●;古井由吉さんに会う(2)

●;講演というものではなかった。講壇の上から教えを垂れるようなものではなかった。平たい会議室の椅子に座ったまま、ゆっくりと喋り始める。述懐というべきものか。つぶやきである。モノローグである。古井さんのしわぶきひとつ聞き逃さないぞといった(しかし決して対抗的ではない)親和的な空気が客の側にあった。しかし、彼らが期待しているものとは違っていたのかどうかわからない。発語するものは断片的で箴言的で、力強さはないけれども訥々と続けられた。

「今、人は元気がないなと感じますね」
「年齢とは直線的ではないですね」
「人間は<論理>を秘めた存在だと思いますね」
「どこに何が潜んでいるかわかりはしない」
「もうひとつの<落とし穴>がある」
「<宗教性>があらゆる者に潜んでいる」
「聖は怖ろしい。怖ろしいにはふたつあって畏怖と恐怖の二つ。畏怖の上に乗ったシステムが宗教」
「多重人格ということばがあって特異な人のように言われますが、もともとが人格なんて多重なんですよ」
「仮面を被っていた人々が普通だった土地もあれば時代もあった」
「今、もうひとつ<社会的な津波>が来るような気がする」

などの断片が印象に残った。45分ほどしゃべった後、旧い映画のフィルムが突然切れて「中断」された時のように講演は終わった。「これでいいでしょうか」とは言わなかったが、聴衆へのサービスはここらで終わりにしたいという意思の表れのように思えた。疲れた表情もあった。続いてサイン会が始まる。酷だなぁ。
●;本は買ったものの「サイン」してもらうかどうか迷う。氏の本を全て持っているわけでもない。その本のうち全く読んでいないものも何冊かある。本読みファンでもない者が「○○○○様 古井由吉」と書かれたものを大事に抱えて得々とするのも嘘っぽくてイヤだ。そんなあれやこれやで逡巡していたが、幸いにして最後列だったので腰を上げる。照れくさいがサインしてもらおう!っと。